他者に対する自己開示、つまり相手に対して心を開くことは、愛の業です。何故なら、神様からの自己開示、つまり啓示がなかったならば、私達は神様がどんな方かを知ることはできませんでした。
しかし私達は、他者に対して自己開示をしようとする時、様々な困難に直面します。第1に自分が傷つく可能性があるからです。また、相手から裏切られたりすることもあります。そして、自己開示をしすぎて自己嫌悪に陥ったりすることもあります。第2に自己開示によって、相手を傷つける可能性があります。その内容が重いものである時、相手が受け止める事ができず、傷ついてしまうこともあります。大きな苦しみの体験は、聞き手を狼狽させることもあります。それゆえ、今接している相手にどれくらい自己開示をすれば良いのかは、私達が毎日抱える問題の一つです。
イエス様は、このような困難をどのように克服されたのでしょうか。
イエス様は、しばしば譬え話を用いて神の国の神秘、つまりご自分の神秘や天の御父のことを語られました。譬え話は、聞く人に受け止め方の自由裁量を残します。ですから、聴く人の興味の度合いによって、受け止め方が異なります。イエス様は、「人々の聞く力に応じて」「多くの譬えで御言葉を語られ」ました。ただ、寝食を共にして、信頼関係を築いていた弟子たちに対しては、譬えを用いることなく話されました。(参 マルコ4・33~34)
しばしば、神への心の開きと人への心の開きは、似ていると言われます。そういう意味では、まだ不完全ですが、少しずつ心を開いて何でも語れる相手、心を開くことを無理強いすることなく待って下さっている方が見つかったことは幸せなことです。