先日、神戸バイブルハウスという団体のイスラエル巡礼に参加しました。総勢50名の巡礼団でした。
団長が、聖公会の引退主教なので、聖公会の若い女性信徒の方に、「いい主教さんですね」と声をかけると「いい加減です」と厳しい言葉が返ってきました。びっくりして私は「あの方がいなければ教会も発展しませんでした」とフォローしていました。
第1日目の宿舎に着き、部屋割りが終わるとすぐに主教は1人で部屋に引き上げてしまいました。ところが、そこには奥さんが残されていました。「私は部屋番号も、鍵も持っていないのよ」と困り顔でした。先ほどの若い女性信徒の方は「いつもああなのよ」とあきれ顔で、添乗員の方に部屋番号を聞いていました。
次の日に、やっと訳が分かりました。その若い女性信徒は、主教さんのお嬢さんだったのです。親子であるがゆえに、厳しいことが言えるわけです。このことがきっかけで思い出したことがあります。
前に、私は養護施設に職員の研修のために通っていました。子供と遊ぼうとしたとき、職員の方からこういわれました。「子供が羽目を外した時、厳しく叱ってください。お願いします。」それで私は、「なぜですか?」と尋ねると、職員の方はこう説明してくれました。
施設の子供は、親でない人の親切をよく受けているが、その人たちはあまり怒らない。しかし、施設の子供たちは、知らないうちに、叱られることの裏には愛情があるということを知っています、と。
だから主教さんの娘さんは、厳しい言葉を使って、より深い親子の絆を表していたのだと理解したのです。親子でも、親子でなくても示せる愛情が育まれる社会でありますように、そう願った巡礼でした。
今から15年ほど前のこと、イスラエルを訪問し、ガリラヤ湖畔の宿に滞在した時のことです。夕日が湖の向う側にゆっくりと沈んでいくのを眺めていると、ある家族が目の前に現れました。
1台の車から降りてきたその家族は、お父さんとお母さん、5歳くらいと3歳くらいの男の子2人の4人でした。男の子たちは、何か叫びながら、お父さんの周りを嬉しそうにまとわりついています。よく耳をすましてみると、その声は「アバー、アバー。」と聞こえました。
その時、はっと気づいたのです。イエスが、父である神さまを呼んでいたのと同じ呼びかけだったのではないか、と。
この子どもたちは、お父さんがとても大好きなのでしょう。そして、一緒にいるのがとても嬉しくてたまらないのでしょう。その喜びを体全体で表し、お父さんにまとわりついていたのですから。
親と子の関係の基本はここにあるのかもしれません。親は子どもがかわいくてしょうがない。そして、子どもは親が大好きでしょうがない。このような関わりが積み重ねられて、親と子の信頼関係がより深まっていくのでしょう。
聖書によれば、イエスが洗礼を受けられた後、「『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が天から聞こえた。」と記されています。(マルコ1.11)
神さまから造られた私たち一人一人もまた、神さまが愛してくださる神さまの子どもです。神さまから見れば、一人一人がかわいい子どもです。そして、私たちは、神さまを親としてより頼むことができます。
イスラエルで出会った、お父さんがとても大好きな子どもたちのように、一緒にいるのがとても嬉しい、という気持ちを持ち続けて、親なる神さまとの関わりを深めていきたいと願います。