先日、神戸バイブルハウスという団体のイスラエル巡礼に参加しました。総勢50名の巡礼団でした。
団長が、聖公会の引退主教なので、聖公会の若い女性信徒の方に、「いい主教さんですね」と声をかけると「いい加減です」と厳しい言葉が返ってきました。びっくりして私は「あの方がいなければ教会も発展しませんでした」とフォローしていました。
第1日目の宿舎に着き、部屋割りが終わるとすぐに主教は1人で部屋に引き上げてしまいました。ところが、そこには奥さんが残されていました。「私は部屋番号も、鍵も持っていないのよ」と困り顔でした。先ほどの若い女性信徒の方は「いつもああなのよ」とあきれ顔で、添乗員の方に部屋番号を聞いていました。
次の日に、やっと訳が分かりました。その若い女性信徒は、主教さんのお嬢さんだったのです。親子であるがゆえに、厳しいことが言えるわけです。このことがきっかけで思い出したことがあります。
前に、私は養護施設に職員の研修のために通っていました。子供と遊ぼうとしたとき、職員の方からこういわれました。「子供が羽目を外した時、厳しく叱ってください。お願いします。」それで私は、「なぜですか?」と尋ねると、職員の方はこう説明してくれました。
施設の子供は、親でない人の親切をよく受けているが、その人たちはあまり怒らない。しかし、施設の子供たちは、知らないうちに、叱られることの裏には愛情があるということを知っています、と。
だから主教さんの娘さんは、厳しい言葉を使って、より深い親子の絆を表していたのだと理解したのです。親子でも、親子でなくても示せる愛情が育まれる社会でありますように、そう願った巡礼でした。