近頃、若い人の口から「自分は社会の役に立っていない。生きる意味がない」という言葉を聞くことがよくある。殺伐とした競争社会の中で、生きる意味を見失う若者が増えてきているのかもしれない。
そんな言葉を聞くとき、私は昔出会った一人の女性を思い出す。もう死ぬしかないとさえ思うほどの絶望の中から立ち上がったという彼女は、きらきら輝くような笑みを浮かべながら、私に次のように言った。
「誰だって、自分があげた贈り物を喜んでもらえればうれしいでしょ。私の命は神様からの贈り物。投げ捨てれば神様は悲しむだろうし、がんばって生きれば神様はうれしいだろうと思ったの。」
その言葉を聞いたとき、私はハッとした。確かに、彼女の言うとおりだろう。社会の役に立たなくても、いつも失敗ばかりでも、ともかく自分なりにがんばって生きていればいい。そうすれば、そんな私たちの姿を見て、神はきっと喜んでくれるに違いない。一生懸命に生きて神を喜ばせること、それこそ私たちが生きる意味なのだ。
神から与えられた命は、実は神の命の一部でもある。天地創造のとき、まだ土くれにすぎなかった人間に、神がご自身の命の一部を吹き込んだことで人間は生きるものとなった。復活したイエスの命は、命が本来持っている輝き、神の栄光の輝きを放った。私たちの命の中には、神の命が宿っているのだ。鼓動する私たちの心臓の中に、流れる血潮の中に、肌の温もりの中に、神がおられる。そう思えば、この命がますます愛おしく感じられる。
社会での激しい競争や、人々の言葉に傷ついたとき、私たちの命が神からの贈り物であること、神の命の一部であることを思い出したい。今ここに生きている、そのこと自体に希望がある。