英国の詩人が、人生において最大の栄光は、失敗しないことではなく、倒れても立ち直ることだと言ったそうです。それで思い出すのが、十字架から復活までのイエスの歩みです。
失敗しないことが栄光なら、イエスの死はまさしく大失敗に見えます。何しろ、たくさんの弟子を抱えていたのに、最後はみんな離れていき、自分を弁護することもなくあえなく死刑になってしまったのですから。
ところがそのイエスは3日後に復活して、2000年後も私たちと共におられるというから驚きです。詩人の定義に照らせば、この立ち直りは最大の栄光となるわけです。
もちろん、この教えにつまずく人も多く、私自身もそうでした。しかしいつしか、科学との矛盾を承知で復活の意味を考えるようになってしまいました。
私は4歳で光を失いました。それは私の失敗ではないけれど、希望を失うには充分な苦しみでした。それでも、なぜだか希望が心に生まれ、それに向かって突っ走るうちに大人になり、社会のなかで働いていました。その課程で、これまたなぜか、イエスの姿がちらちらと見え隠れしたのです。
無実の罪で死刑にされ、それでも人類を救おうとしたイエス。そんな人物が信じる人の心に復活するのは、むしろ自然なのかもしれません。イエスの復活は希望の復活であり、生きる指針の普遍化なのでしょう。だから私が希望を失いそうになるたびに、イエスはひょっこり現れて、「落ち込みなさんな、一緒に行こうや」と手を取ってくださったのかもしれません。
どん底に倒れても、自分の殻から飛び出して希望の光に触れるとき、希望は私たち自身の内面から生まれるのだと思います。イエスとの出会いは、多くの人にとってそのきっかけになっているように私には思えるのです。