死について私が一番最初に意識したのは8歳の時であった。
母の従妹の子どものT君が10歳で脳腫瘍のため急死した。
T君は頭が良く、運動能力もすぐれていた。
何をさせても一番で、御ミサの侍者もしていて、皆の模範となる少年であった。
その上、親孝行の子どもであったので、両親の嘆きは深かった。
子どもの私はT君の死に際し、神さまは本当にいるとじゃろかと疑いを持った。
それで私は一人で教え方さまの所へ行った。
「教え方さま、なして、あげん立派かT君が死なんばいかんじゃったと?どうしても、おりゃあ、わからん」と泣きながら訴えた。
すると、教え方さまは、「美沙ちゃん、神さまはね、なんでもお見通しじゃっけんね、今が一番、T君の心のきれいか時じゃけん、天国へ連れて行ったとよ」とやさしい声で答えてくれた。
「じゃばってん、やっぱり、わからん」と私がいうと、更にやさしい声でいった。
「美沙ちゃん、そりゃあ、今はT君は良か子じゃばってん、大人になってからのことは人間にはわからんとよ。ひょっとしたら、大人になって悪魔の誘惑に負けるかもわからんとよ。じゃけん、今、まっすぐ天のお父さまの所へ行けるうちに連れて行かれたとよ。T君は天国におるとよ。心配せんでよかとよ」と重ねて教えてくれた。
なるほどと子ども心にも納得した。それ以来、人が帰天した時、「ああ、この人の心が一番きれいな時に迎えに来たとね」と思うようになった。
別れは悲しいけれど、父の時も母の時も弟の時も、ゆかりの人たちの帰天の時も、そう思って手を合わせている。