息吹

植村 高雄

今日の心の糧イメージ

 「春の息吹」という言葉を知らない少年時代のお話です。

 終戦の年、神奈川県の葉山から雪深い越後の国、父親の郷里に疎開しました。葉山には御用邸もあり、戦争中でしたが、私にはとても心地よい生活環境でした。

 父親が戦犯になりそうだ、と慌てて疎開します。初めての大雪や猛烈な吹雪を体験し、小学3年生の私は、環境の激変に会い、相当混乱した心の生活を送っていました。学校の帰り、配給のお米を背負い、雪道に躓いてひっくり返り、起き上がれない為に雪に埋もれていく恐怖と哀しさを体験しました。そして春になり、雪の下から待っていたかのようなフキノトウを見た時の、あのほっとしたような喜びを少年ながら感じました。この何ともいえない春の息吹の体感は、生涯の忘れられない感情です。

 この息吹という感情の後には、これから何か大きな出来事や喜びがあるな、という予感です。以来、私は予感という感情をとても大切にしています。

 美しいもの、例えば小説、絵画、音楽、友との会話、大自然などに触れますと、とても奥深い魂の感動を覚えます。平凡な日常生活で感じたり考えたりする中で、この春の息吹のような生活感覚が、実は人を幸せにしていくようです。

 この体験の解釈を深く意識出来た人と、単に日常生活のマンネリズムに流され、生きる喜びが人生にはないと諦めて、孤立感や停滞感、果ては絶望感を感じている人々も沢山おられます。この平凡な日常生活を停滞感と解釈するか、人生の大きな喜びを見出す知恵の源泉と解釈するかで精神衛生は相当違ってくるようです。

 少年時代、初めて意識した春の息吹、その息吹の背後にあった生きる喜び、洗礼への道、色々の息吹の後に体験した人生に、深い神秘を感じます。

息吹

片柳 弘史 神父

今日の心の糧イメージ

 最初の人間アダムは、土から造られたと聖書にある。(創世記2・7)神は土をこねて人の形を造り、最後に鼻から「命の息」を吹き入れた。すると人間は「生きる者」になったという。日々の生活の中での体験に照らして、これは納得のゆく記述だ。日々の生活の中で、わたしたちはときどき、疲れ果て、生きる気力を失って、土くれのようになってしまうことがある。そんなとき、どこからともなく「命の息」が吹いてきて、生きる力を取り戻す。まるで、創造のプロセスをなぞるようなことがときどき起こるのだ。

 たとえば、いくつもの仕事が重なり、「もう限界だ。なんでこんな目に会わなきゃいけないんだ」と心の中で思いながら歩いているときに、たまたますれ違った先輩からにっこりほほ笑みかけられる。そんなとき、心に「命の息」が吹き込まれる。荒み切った心は癒され、「もうちょっと頑張ってみよう」という気持ちが湧き上がってくるのだ。

 道端に咲く草花を通しても、「命の息」が吹くことがある。たとえば、疲れのとれない体に鞭を打ち、「今日もまた仕事か」と重い足取りで出かけるときに、駐車場の片隅に咲いたフキノトウが目に留まる。さわやかな緑色に心を打たれ、「ああ、春が近づいたなぁ」と感動して立ち止まる。そんなとき、心に「命の息」が吹き込まれる。心が温まり、「よし今日も頑張ろう」という気持ちが湧き上がってくるのだ。

 神さまは、わたしたちを造ったままで放って置くことはない。わたしたちが土に戻りかけたときには、必ず「命の息」を吹き込んで、「生きる者」に戻してくださるのだ。「命の息」を深く吸いこみ、新しい力に満たされて、今日の一日を始めたい。


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