息吹

服部 剛

今日の心の糧イメージ

 私たち夫婦の新婚旅行は長崎でした。妻の提案で、作家の遠藤周作を敬愛する私のため、著書『沈黙』の舞台・長崎の旧外海町などを巡りました。

 旅では、大浦天主堂近くの土産物店の奥にある「コルベ記念室」内の宿に泊まりました。

 コルベ神父様は戦時中、ナチの強制収容所に入れられている際、処刑される男性に妻子のあることを思い、自ら身代わりとなった方で、そのことは遠藤作品でも記されています。この記念室は神父様が創刊した雑誌『聖母の騎士』を印刷した場所であり、暖炉など神父様ゆかりの品々が展示されています。早朝、私は一人で散歩に出かけ、大浦天主堂の脇にある、遠藤氏の愛した祈念坂の石段を感慨深く上りました。

 一方、妻は宿泊先で年上の女性Yさんと出逢い、会話を弾ませていました。Yさんは心温まる言葉にフェルトの絵を添えた布手紙の作家で、多くの友人の祈りに支えられ大病を克服した体験を妻に語りました。

 昨年、Yさんから東京に来たという連絡をもらい、数年ぶりに再会、懐かしく語らいました。友人の焼き物展のお手伝いにいらしたとのことで、私も観に伺いました。会場奥の茶室に入り、Yさんに挨拶をすると、「彼はカトリックの詩人さんなんですよ」と関係者の方々に紹介してくれました。するとお茶の先生が「切支丹が迫害された時代に洗礼の水を入れた器を復元したお茶碗があるので、その器でお茶を立てましょう」と言ってくださり、心に残るお茶のひと時となりました。

 その後、梯子を上ると小さな部屋があり、窓外からは爽やかな風と共に夕空が映え、雲間からは富士山の頂が見えて、Yさんと私は再会に感謝しながら、沈む夕陽を静かに見つめました。

息吹

遠山 満 神父

今日の心の糧イメージ

 幼きイエス様が現代に生きていらしたら、ボール遊びもなさった事でしょう。ただボールは、玩具となる為に空気が必要です。

 聖書の中で、空気の動きを現わす、風、息吹、息等の単語は、ヘブライ語やギリシャ語で、霊と同じ言葉が使われています。

 創世記には、神が人を「土の塵」で形作り、「その鼻に命の息を吹きいれられ」、人が「生きる者となった」と記されています。(2・7)それゆえ、「霊が人間を去れば、人間は自分の属する土に帰り、その日、彼の思いも滅びる」と詩編作者は語ります。(146・4)

 それでは、どのような時、霊が人を去るのでしょうか。この事を如実に表しているのが詩編51です。詩編51は、ダビデが大罪を犯した後、その罪を預言者から指摘された時、唱えた祈りとされています。

 罪を犯し、神の霊が取り去られると感じたダビデは、痛悔と罪の告白に続き、次のような祈りを唱えました。「御前から私を退けず、あなたの聖なる霊を取り上げないで下さい」。(13節)

 私達は、神の道から外れて行くと、空気の入っていないボールのようになり、私達に本来委ねられている使命を果たす事ができなくなり、惨めな人生を歩む事になります。そのような時、悔い改めて神に立ち返る事によって、私達は罪の赦しと新たに出発する機会を頂きます。それはあたかも、しぼんだボールに再び空気が入れられ、幼きイエス様の遊び道具として、再度活躍するのに似ています。

 ただその時、赦しを受けた者として使命も受けます。イエス様は弟子達に言われました。「誰の罪でもあなた方が赦せば、その罪は赦される」と。(ヨハネ20・23)それは、神様から受けた赦しによって、私達も赦し合う使命なのです。


前の2件 1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11