私にとっての復活とは

越前 喜六 神父

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 初めに結論を申し上げます。キリスト者の私にとって、復活とは完璧で完全な命の勝利であると思います。

 ところで、キリスト教でいう復活とは何でしょうか。復活とは、死んだ人が単に蘇生することではありません。復活というのは、死んだ体が栄光に輝く霊的な体によみがえることを言います。キリストご自身は、十字架に架けられて死なれましたが、生前に予言されたように、3日目に墓の中から復活され、多くの弟子たちに出現されました。キリストの体は生前の身体でしたが、状態はまったく違いました。それは、時空に影響されない栄光に輝く霊的な身体でした。

 私たちも、もし信仰があれば、世の終わりに、栄光の体に復活するでしょう。そのとき、心身ともに完全・完璧な命を生きることになります。

 聖書には「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」とあります。(黙示録21・3~4)こうした希望こそ、復活の信仰にほかなりません。

 多くの人々は、死者の魂が不滅なので、死後、生前の行いに応じて、来世の安楽を享受すると信じています。それで私は、死後、私の魂が天国に行き、そこで神を仰ぎ見て、永遠の安楽を享受するだろうことを信じています。そればかりではなく、死んで灰になってしまった私の身体も、世の終わりには、キリストのように、栄光に輝く霊的身体として復活し、私の魂と合体して、完全・完璧な私になることを信じ、期待しています。これこそ人間にとっての究極の完成ではないでしょうか。

息吹

熊本 洋

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 「息吹」とは、何か? 辞書をみますと、第1に「息を吹くこと。呼吸」、第2に「活動の気配。生気」とあります。その例文として「春の息吹」と「新時代の息吹を感じる」の2つが紹介されています。

 第1の定義である「息を吹く」ためには、まず意識的に思い切り、息を吸い込むことから始めねばなりません。これは、まさに「息を込める」ことから「ヨシ!コレカラ、ヤルゾ!」とヤル気で「意気込む」、張り切っているときの動作であり、何らかの目的達成のため、思いきり張り切った、気合いに満ちた精神状態であります。

 その状態にあるためには、確固たる目的と手段、そのための手抜かりのない知識と勇気がなくてはなりません。

 目的が大きくなればなるほど、その意気込みも、自然、大きくなってきます。大きな事業は、大きな意気込みから始まり、当然のことながら大きな成果が期待されます。

 用意ドン!の徒競走のスタートラインでは、だれしも無意識に大きな深呼吸をします。これは、用意ドン!の合図を前に、自ずと出てくる、絶対必要な空気吸い込みのワザであります。この思い切り大きな吸い込みがあってこそ、強力な息吹とともに強力なエネルギーが発散し、ベストスタートが可能となります。大きな息吹に始まる、この強力エネルギーのベストスタートは、ベスト・ランニングに繋がり、勝負に大きな成果をもたらします。

 ベストスタート、ベストランニングは、人々に大きな感動をもたらします。

 それぞれの人に、多くの賞賛の息吹に満ちた、喜ばしい成果がもたらされることを期待して止みません。


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