「歓迎」という漢字は、人が心底喜んでお迎えする気持ちを表しています。ただ、単純に嬉しいとか、楽しくお迎えするということではないと思います。
たとえば、私が歓迎するという時というのは、毎週の決まった曜日に開講しているキリスト教の講座に、初めての人がふと訪れた時です。
この人が、愛と真実と平安を求めて、キリストの福音に出会いたいという動機で受講されるのであれば、それこそもろ手をあげて歓迎します。それは他のメンバーたちも同じです。主キリストは、愛と平和と喜びの神ですから、聖書の学びを通して主キリストに出会う人は、間違いなく主キリストから歓迎されていることを体験します。こうして信仰の道に入っていくわけですが、その道のりが、途中どんなに険阻に思えても、主キリストの愛と恩恵の喜びに慰められて、勇ましく進んでいきます。歓迎とはそれほど重要なことだと思います。
さて、私自身が歓迎されていると体験したことを申し上げます。
5年前の春3月、巡礼団の一行を連れてイスラエルの首都エルサレムを訪ねたことがあります。エルサレム巡礼で一番大事なことは、主イエス・キリストが十字架上で亡くなられたカルワリオの丘とその麓にあるお墓の上に建てられた大聖堂、聖墳墓教会に入ることです。頑丈で壮麗な建築物です。イエスの墓は、人が腰を曲げ、くぐってしか入れない洞窟です。そこに空の墓がありますが、今は世界からの巡礼団が多すぎて、祭壇になっています。私とその一行が、日本から来ましたと言ったら、真っ先にその祭壇をミサのために優先的に使うことが許されました。その時は、本当に歓迎されていると感じました。