▲をクリックすると音声で聞こえます。

ひたすら前に

岡野 絵里子

今日の心の糧イメージ

 人間は絶えず前へ、前へと進もうとする生き物であるようだ。ただその進み方はさりげない。偉大な業績を残す人もいないわけではないが、ほとんどの人は、大げさに進歩だの成功だのと騒いだりせず、その人らしく前へ進む人生を送っているのである。

 日々の中で、新しい何かに気づき、知ることで、自分が豊かになる。また昨日出来なかったことが今日出来るようになれば、それだけで嬉しい。そんな風に生きている人は幸福だと思う。

 だいぶ以前のことになるが、或る日、職場の同僚が「牛乳パックを片手で開けられるようになった!」と、出勤して来るなり自慢してきて、周囲の人たちが皆、思わず笑ってしまったことがあった。

 同僚は勤めながら、家庭では幼い子どもの世話と家事をこなしていたから、さぞ大変だったことだろう。愚痴をこぼしても無理はないと思われるのに、彼女は楽しそうにしていた。毎日は大変でも、苦労ではない、むしろ幸福がぎっしり詰まっていて味わうのに忙しいのだ、と言っているかのようだった。

 「牛乳パックの片手開け」も忙しいお母さんの愛情が生み出した技なのである。牛乳パックを両手で開く余裕もない忙しさでさえ、前向きな彼女は喜びに変えてしまう。不思議なことに、彼女が日々に喜びを見つければ、それは周りの人々に伝わったのである。自分の人生にも喜びがある、と気づかされるのか、彼女の周りでは、皆暖かい表情をしていたように思う。

 その後、私は勤めを辞めてしまい、職場自体も閉じられて無くなってしまった。だが今でも、あの朝の彼女とその幸福を思い出すことがある。