「共にある」ということには、二つの意味があると思います。まず一つは、肉体的に同じ場所にいること、もう一つは、地理的に離れているが、心理的に「共にある」こと。この二番目の、心理的に「共にある」の方がより多く使われ、意味深長であると思います。いずれにせよ「共にある」ということは、心強いことではありますが、一人一人異なる人間、そう簡単なことではありません。
たとえ、互いに遠く離れていたとしても、互いに同じ考え、同じ強い願望、同じ理想を持っているならば、人間関係はより強固であり、信頼関係も生まれ、「共にある」ことをより身近に実感するに違いありません。「同じ願い、同じ祈りによる共存」は誠に尊く、社会の安心・安全、そして、社会の健全な発展のため、尊重され、確保されねばなりません。
「天におられるわたしたちの父よ、・・・」と、人々が「主の祈り」を唱えるときほど、人間の謙虚な姿はありません。この謙虚さの中に、心の平安、人類平和の可能性が秘められていると感じます。
尊ぶべき「主の祈り」は、次のとおりです。
「天におられるわたしたちの父よ、みなが聖とされますように。み国が来ますように。みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください。アーメン」
この祈りとともに、人類の平和が一刻も早く到来することを願って止みません。