自分の思いや考えが正反対である人に向かって何かをいう前に、胸に手を当て、ちょっと間を置いて「愛」のフィルターを用意しているかしら、とひと呼吸起きましょう。
とはいえ、これってけっこうむつかしいのです。
人の目にあるおがくずは見えるのに、自分の目にある丸太には気づかないのですから。
こと宗教間の事柄となるといっそう微妙で、言葉の使い方、ニュアンスの違いで、しこりが残ったり溝が深まったりします。宗教エゴ、霊的エゴというものがあるのでしょう。
思い込みの線引きをして否定的になるのでなく、異なるところでも、あたたかくゆとりをもって接することができればと思います。
長崎に居たころの、忘れられない友人のエピソードです。
彼女は、迫害時代に信仰を守り抜いたカクレキリシタンの子孫の男性と結婚し、熱心なカトリック信者になった人です。
あるとき中心地の観光通りのアーケードを歩いていて、道端に祀られていた小さなお地蔵さんの前を通りすがりに、すっと両手を合わせた彼女に、あらら、クリスチャンなのにとびっくりしたのですが、財布から小銭をつまんで賽銭箱に入れるではありませんか。お地蔵さんの前には花と線香が供えられていました。
彼女はにっこりして「いつもこのお地蔵さんに挨拶ばしとるとよ。近道してお寺ん中通るときもね、『通らしてもろておおきに』と言うとるの」と、楽しげです。
イタリア巡礼の時に田舎道で見た聖母像の前に花とローソクが供えられていたのを思い出しました。
そういえば、彼女の家庭祭壇には、マリア観音像が祀ってあります。
秘かに守られた優美で清楚な東洋のマリアさまです。