復活された主イエスは、鍵をかけて家の中に閉じこもっていた弟子たちの真ん中に立ち、「あなた方に平和があるように」と言われました。(ヨハネ20・19)鍵がかけられていたのは、その時の弟子たちの心をも表わしています。弟子たちは、イエスの十字架上の死に落胆させられ、自分たちにも危害がおよぶことを恐れていたのです。しかし、イエスは、そんな弟子たちを咎めることなく、「平和」を約束され、「平和」の使者として世に派遣されました。
イエスの約束されたこの「平和」こそ、私が心に抱く「平和」です。しかし、私たちの人生は、心配ごとや悩みが尽きません。日々いろいろなことに心を乱され、思い煩っている現実があります。それにもかかわらず、イエスは、私たちに「平和」を約束されるのです。
同じヨハネ福音書の中で、イエスは、「私は、平和を世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな」と言われています。(14・27)弟子たちの心が、恐れのために閉ざされていても、その真ん中に立たれたイエスは、日々思い悩む私たちの生活の中心にもおられるのです。
日々の苦労や心配ごとが、私たちの思い通りに解決するわけではないかもしれませんが、その只中に、確かにイエスがおられるということです。閉ざされた戸、固い心さえ、イエスの「平和」の障害にならないのです。真ん中に立つイエスは、「私に触れ、信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と、私たちを励ましてくださいます。(参 ヨハネ20・27)
どんな時も、私たちの心の中心におられるイエスに心を向け、信頼する信仰こそが、恐れを超えて、「イエスの平和」を生きる者にと、私たちを導いてくれるのです。