そもそも、平和とは何か。「秩序の静けさ」という哲学的な定義がありますが、誠に、明快な定義だと思います。これが「私が抱く平和」となると、その平和の意義は、明快さに欠け、あいまいになります。
「わたし」とは、いったい、何か? について、明確な回答がないから、かもしれません。人、それぞれが抱く平和が、人によって異なると、平和は、共有できず、平和実現は、極めて困難ということになりかねません。
「戦争か、平和か」とあるように、平和は、常に何か相手があってのことであり、一方的な平和はあり得ません。平和は、互いにこれを共有し、声をそろえてほめ讃え、謳歌すべきものだと思います。
ところで、だれしも家庭にあっては、家族それぞれが、よき父、よき母、よき息子、よき娘として、その使命役割を果たし、平穏幸せな生活が営まれることを切望して止みません。
また、家庭の外では、知人、友人との恵まれた人間関係を大切にし、親愛、友愛、敬愛の情を、いつまでも失わず、健全な人間として立派に成長、発展したいと願っています。
家族の温かい愛情、友達の深い友情に育まれてこそ、充実した平穏豊かな人生が可能になると思います。
それと共に、自分自身の心の中に起こりがちな不安や葛藤を適宜適切にコントロールできる「道」を体得し、心の平安を常に保持し続けたいものであります。
その「道」とはなにか。第2の聖書と言われる『キリストに倣いて』第1巻の第11章「心の安らぎを求め、向上を熱望すべきことについて」には、冒頭「もし私たちが他人の言行や自分に無関係なことにかかわりあわないなら、十分な安らぎを得られるだろう」と述べられています。
見倣いたいものです。