人間が判断するとき、どんな要素があるのかと考えることがあります。損するのに、あえてその道を選んだり、どうでもよいことなのに固執してしまうこともあります。自分の経験からは考えられなかったことを選ぶこともあります。
路上生活の「おっちゃん」の世話をしようと教会の人が私鉄の駅で炊き出しをしようとしたときのことです。一人の定年を迎えた熟年の方は、「おっちゃん」の生き方は自業自得だと思っていました。だから話し合いの中でも持論を主張しました。他の誰もが、この方の協力は得られないなあと思っていました。ところが、誰よりも活躍し、長くそのボランティアに携わったのはこの人でした。経験故か、人生生きるのには苦労が絶えないことを、この人は体にしみこませていたに違いありません。
また私が関わった別の団体でも同じことがありました。
駅の回りの路上に寝泊まりしている人々に対しておにぎりを配ったり話しかけたりするボランティア活動をしている奥さんに、ご主人は、そんなことは意味が無いと思っていました。しかし奥さんのこの活動に、いつも縁の下の力持ちとして陰で協力し続けていました。きっと、自営業のこの方は、人から話しかけられることのありがたさを、人一倍に感じていたのでしょう。
私が最初に仕えた主任司祭もそうでした。保守的なこの人は、あまり社会的なことには関わらない人でした。ところがマンションが教会の裏に立つ計画が持ち上がったとき、近所の人の要望で、身の危険も省みず、反対運動の先頭に立ったのです。
経験を積み重ね、生きることの意味を知り、人の心はこうして知らない間に作られていくと学ばせていただいた先輩方です。