わたしはいま、山口県の教会で、80代の神父たちと一緒に生活している。毎朝のミサは当番制で、当番でない神父は、当番の神父の両脇に立ってミサをする。80代の神父が当番のとき、脇に立って一緒にミサをしながら感じるのはスピードの違いだ。80代の神父たちは、祭壇に道具を並べるにしても、本を開くにしても、一つひとつの動作をとてもゆっくりする。説教をするにしても、一言ひとことをゆっくり噛みしめるように話す。隣に立っていてイライラすることもあるくらいだが、80代の神父たちのミサは、信徒たちのあいだでとても評判がいい。あれをやっていたと思ったら、もうこれというように、どんどん先に進んでゆく若い神父のミサより、神様の愛をゆっくり味わうことができるというのだ。
80代の神父たちは、ミサだけでなく、食事にしても、どこかに出かけるにしても、すべてがゆっくりだ。食事のときは、出されたものをゆっくりと食べ、外出のときは、道で会う人たちと立ち止まって話したり、花壇の花を眺めたりしながらゆっくり歩いてゆく。体が弱っていて早く動けないというのが大きな理由であるのは間違いないが、それ以上に、一つひとつのことをゆっくり味わいながら生活しているように見える。残り少なくなった人生の時間をゆっくり味わい、神様の愛をかみしめながら生活している。そんな風に見えるのだ。それに比べてわたしは、せっかくの時間を味わうこともなく、仕事から仕事へと駆け回るような毎日を過ごしている。
世間一般では、わたしの方が時間を有効に活用しているように見えるかもしれないが、ゆっくり味わうことで時間を最も有効に活用しているのは、実は80代の神父たちの方なのかもしれない。