愛するってどういうことだろう。
家族や気の合う大事な友達を愛せるのはあたり前だし、わざわざ愛するとは?なんて問い直すまでもないこと。
問題は「いやなひと」なんて思ったり、「ぜったいゆるせない」などとひそかに思ってしまうひとも愛せるか、です。
つまり「敵を愛せよ」とのキリストの教えを実践できるかということですよね。右の頬を打たれたら左の頬もさし出せますか?
うーん、むり。とてもできないよ。たたき返してしまう、となさけなさそうな小学生の息子でした。幼稚園の妹のほうは、「おともだちからぶたれたの。でもアタシはじっとガマンの子であった」そうです。
ある聖女の伝記を読んでいましたら、彼女の修道院に「どうしても好きになれず、顔を見るのもつらくなるシスターがいた」とあり、あら、こんなすばらしい聖人であっても嫌いでたまらないひとがいたのね、とちょっと安心してしまいました。
そして彼女はどう努力しても「嫌い」を好きに変えられません。考えたのは、その大嫌いなシスターと顔を合わせるときは、とっておきの笑顔で向き合うということでした。聖女もじぶんの弱さに苦しんでいたのです。それにしてもすごい策略!あるときその姉妹は嬉しそうに「わたしのどこがそんなにあなたの気に入ったのでしょう」といったそうです。
そうか、それでいいのね、愛の表現になるのだから。なんだかダマしているような気がしないでもないけれど・・・でもこれはよきダマしかたなのだと思います。
愛されているという幸福な思いをはこぶのですから。
愛の小さな道だと納得。
たいせつなのは、弱い人間である私たちは、すべてのひとを愛するのは難しくとも、「愛したい!」という思いをもち続けることなのでしょう。