今年92歳となった父は87歳になる母と故郷で元気に暮らしています。
小学3年生の頃、普段は寡黙な父からひどく叱られたことがあります。
その時私は、部屋の中で相撲遊びをしていました。一人で力士二人の役をして、実況アナウンスも自分でやる変な遊びです。
土俵際に追い込まれた力士のマネをして、「危ない。もう、ダメです。中井山、もうダメです。もうダメです」などと叫んでいたところでした。
となりの部屋にいて聞いていた父が、突然に大声で怒鳴ったのです。
「ダメ、ダメって、そげん簡単に言うな!」
唖然としました。遊びで言っているのに、なぜそんなにも真剣に叱るのか、釈然としませんでした。父もそれ以上のことを言いませんでしたから。
けれども、歳月を経て、教師になった私は、人様に同じことを言うようになったのです。
「ダメだなんて、言わないでくださいね。よけい自信をなくします。やる気もなくして、自分はダメな人間なんだと思い込みます。特に親が子どもに言う場合は強い力をもちます。言葉って、人の心や運命を変えるんですよ」
父のあの時の厳しい言葉はずっと私の記憶のなかにあり、現在の私を作り、人様にも伝えたいものとして育っていたのです。
さて、聖書を読むと、父である神の私たちへの様々な命令が記されています。
それらを厳しいと感じることがあるかもしれません。なぜそう言われるのか、その時は釈然としないことがあるかもしれません。
けれども、歳月を経て、その厳しい言葉は、子を思う父の愛から出たものであることに気づくでしょう。
父である神の厳しくとも温かい言葉は、私たちをこの世と天国の幸福に導くものなのです。
父親のイメージは、母親の「心優しい」イメージと異なり、物事に動じない、「泰然自若」、「厳しい」というイメージです。「地震、雷、火事、親父」と言われるほど、ときには「怖い」「恐ろしい」存在の父親ですが、一旦緩急あれば、何よりの支え、力となってくれるのは、やはり、父親。賢明で情熱ある父親ほど、頼り甲斐がある存在はありません。掛け替えのない、誠に尊い存在であります。
一旦緩急のときに限らず、父親は、常に、温い眼差しで家族を見つめており、家族は父のぬくもりを、湧き出る心地よい温泉のように感じ、受け止めています。そのお湯は、途切れることなく、無尽蔵に湧き続けています。熱からず、ぬるからず、心地よいぬくもりが保持されています。温泉に癒される者にとって、なにより必要、大切なことは、その湯加減、お湯の適温、お湯の温かさ、ぬくもり具合であります。父親は、家族のすべてを知り尽くしており、家族の気に入るぬくもり具合も、当然、熟知しています。父親のぬくもりは、家族のぬくもりであり、その穏やかな温もりは、互いに共有されています。父親は、家族の太陽であり、燦々と家庭に照り輝き、限りないぬくもりを与え続けています。母親の愛情とあいまって、父親は、家族に限りない幸せをかもし出しているのであります。
私どもは、父親のぬくもりに対して、認識を新たにすることにやぶさかであってはなりません。男女平等、男女同権の世の中、母親のぬくもりについても、この際、父親に勝るとも劣らぬ、絶賛に値する尊い存在であることをあえて申し添えておきます。