父のぬくもり

遠山 満 神父

今日の心の糧イメージ

 小学生の頃の父の思い出の中で、強烈な思い出が一つあります。私の実家から5キロ以上離れていた親戚の家の棟上げ式の事です。その日行われる事になっていた餅投げを楽しみにして、私は徒歩で親戚の家まで行きました。餅投げが終わった後での事。叔母が、夕食が準備してあるので、食べて帰るようにと言ってくれました。それで、夕食迄の時間、辺りをうろついていたところ、父から突然帰宅命令が下されました。それは、容赦しない言い方でありました。ただ、「子供は帰りなさい」との事でした。それから、日暮れの5キロ以上の道を、私は、とぼとぼと歩いて帰りました。本当に、自分の親なのだろうか、と思えるような仕打ちでした。

 このような父も、年老いてからは、随分変わりました。晩年の父は、私が帰省する度に隣町のモールへ、映画と食事の為に私を連れ出してくれていました。映画は、何を見るか余り計画はせず、映画館に到着した時刻に始まる映画の中で、適当なものを観るのが常でした。アクションやSFの映画の時には、隣でいびきを立てて寝ていることもありました。自分は、疲れているのに、無理をして私を映画に連れ出してくれていたのです。また、映画の前か後、モールの中にあるレストランに入り、そこで食事をしました。今でも、その頃食べていたメニューに似た食事を何処かで食べると、父の事が思い出され、心が温かくなります。

 私の父方の祖父は、もっと厳しい人だったと家族から聞かされた事がありました。それゆえ、若い頃の父も、あのように厳しかったのだろうと今は思えます。

 数年前他界した父が、今はただ、父なる神様の懐で、神様の温もりに包まれていますようにと祈るばかりです。

父のぬくもり

シスター 山本 久美子

今日の心の糧イメージ

 子どもの頃の私にとって、父親は、側にいるだけで緊張してしまい、側に近づけない恐い存在でした。ですから、私には、父との良い思い出があまりありませんでした。

 教会に通うようになっても、神様を「父」と表現することで、より親しく神様を感じられることは私にはなく、むしろ厳格なイメージにつながり、ピンと来ませんでした。

 聖書のルカ福音15章に、有名な「放蕩息子」のたとえ話があります。その話を初めて聞いた時、私は、自分の父親とは全く違う、父なる神のイメージにショックを受けると同時に、毎日、断腸の思いで子どもの帰りを待ち続ける父親の姿に、無条件で子どもを喜んで迎え入れる深い愛に、心からの飢え渇きを覚えました。ふり返ると、私のこれまでの信仰の歩みは、この私を無条件に愛し、待っていてくださるそんな大きな存在に巡り会うための憧憬と探究の道のりでした。

 やがて、私も、祈りやいろいろな経験を重ねて、「放蕩息子」に描かれる父・・・神様の深いいつくしみを、頭ではなく心や体で味わい、「父」なる神様に安心して信頼することを学んできました。

 そして、一人の大人として、信仰の視点で、自分の父に対する思いを味わい、受け取り直す恵みをいただいたのです。

 そのプロセスで、私は、父にとっては到底理解できない修道生活の道に進み、父の思いを顧みることが少なかった私を、父がどれほどの痛みの中で受け入れてくれたのか・・・という思いに至り、私に対する父の愛情にも気付かされたのです。今も、父との関係が全くスムーズになったとは言えません。しかし、父なる神の眼差しという「ぬくもり」の中で、恵みに変えられていくと信じて、委ねています。


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