わたしの支え

服部 剛

今日の心の糧イメージ

 我が家の朝は慌ただしく始まります。私と妻の連携プレーでダウン症児の息子・周の食事介助をし、トイレの世話をし、着替えさせて車に乗せ、午前八時過ぎに到着するスクールバスの停留所へと向かい、無事にバスに乗せて...ホッと一息、胸をなで下ろします。障がいのある子どもを愛し、育む親達は、子どもを乗せたスクールバスが遠のいていくと何を語るでもなく安堵感を共有した後、互いに微笑んで会釈し、各々の日常へと歩きだします。

 昨年まで通っていた保育園では健常のお子さん達と一緒に過ごしていましたが、現在通う小学校は特別支援学校で、一緒に学ぶ子ども達は何かしらの障がいを持っています。妻にとって、子育てで同じように苦労するお母さん方と交流することは、大きな心の支えになっているように感じます。

 人はそれぞれに違う形の苦労や課題を背負いながら生きています。その悩みや哀しみは安易に慰められるものではないでしょう。しかし、妻の場合、「障がいを持つ我が子を育てる」という同じ境遇を生きる母親同士のかかわりで心が癒されているようで、人と人の交わりの中で、抱えた重荷が少し軽くなることがあるのかもしれません。

 特別支援学校の先生方は息子にあふれんばかりの愛情を注ぎ、熱心に育んでくださっています。毎日の連絡帳を読むと、「今日は休まず歩けました。素晴らしいです」など、肯定的な言葉が綴られており、妻も家庭での様子を伝えています。放課後には、障がい児のためのデイサービスにも通っており、のびのびと育つ周の世界は広がっています。

 私達夫婦は、ゆっくり育つ息子を通してかかわってくださる多くの人々を支えに勇気と希望を頂いており、心から感謝しています。

目覚める

熊本 洋

今日の心の糧イメージ

 キリスト教で、一番大切、重要な祭日は、キリストの誕生を祝うクリスマスと考えられがちですが、キリスト教で一番大切な祭日は、キリストの復活を祝う「復活祭」であります。この祭日についての認識不足からか、多くの人が「復活祭」が何日なのかについても、無関心、無知のまま、過ごしています。復活祭は、12月25日のクリスマスとは異なり、毎年日付が変わります。その復活祭の日付は、春分の日の後の最初の満月の次の日曜日です。2018年は4月1日でした。

 ところで、使徒パウロは、「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です」との名言を残しています。(1コリント15・14)キリストの復活ーーおよび復活されたキリストご自身ーーは、将来の私たちの復活の始まりであり、源である」と、教会は説き教えています。

 「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。・・・・アダムによって、すべての人が死ぬことになったように、キリストによって、すべての人が生かされることになるのです」。(1コリント15・20~22)このことが実現されるまで、復活されたキリストは信ずる人々の心の中に生きておられます。キリスト者は復活されたキリストにおいて「来るべき世を体験し」(ヘブライ6・5)その命はキリストによって、神のいのちの中に引き入れられます。それは、「もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きる」(2コリント5・15)ということのためなのです。


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