いやいやー、私が妻以外の偶像にひれ伏す、なんてつもりは絶対ありませんから。主が我らの支えであるように、妻は私の支えなのですから。(しかし、『イスラエル人もエジプトで虐げられていたよね』と言われそうですね)まずい!いや、同じようでも私はずっと大事にされていると思いますから。ふー。
こんな風に、世の中の夫婦も年をとってきて、互いにどことなく支えになりあっているというのが、自然ではないでしょうか。私達夫婦も、多分煉獄を通ってからでしょうが、主にまみえる時の事を話すことが多くなってきています。それまでは、この地上で支え合いつつ旅をする、これが主キリストと花嫁である教会の関係を表すのだと、聖パウロも書いておられます。(参:エフェソ5・25)ただ、うちの場合、主が妻で、花嫁が私という変わった関係ではありますが。
しかしながら、聖書によると、十字架上での死が避けられない、と自覚したイエスは、ゲツセマネの園で次のように祈られたと書かれています。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」(マルコ14・36)
イエスは、自分の願いではなく、神さまの御心が行われるようにと祈り、すすんで十字架の苦しみを受けられました。そして、その生涯の最後まで神さまへの信頼を失いませんでした。その結果、復活という出来事が起こったのでした。
何もかも自分の思い通りにいかない時、その時人間は、ただ神さまの御心を受け入れるしかないのかもしれません。また、これこそが、真の私の支えになっていくのかもしれません。
このようなイエスの姿に倣って生きること、これが本当のわたしの支えになっていくのでしょう。また、ここに、本当の信頼と希望を見いだすこともできるのだと私は思います。