わたしの支え

黒岩 英臣

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 主は我らの支え、主は我らの柱。

 教会では折にふれてこの聖歌を歌います。この歌の意味するところを、昔のイスラエル人がよくわかっていればよかったのですがね。

 私は、妻の運転手兼召し使いとして、買い物のお供に荷物運びはもちろん、病院への送り迎え、ただ、料理という神聖な領域にこそ立ち入りませんが、食事を嬉しく頂いたあと、妻が食洗器に入れたあとに残った食器類をうやうやしく洗ったりしております。

 その時、こんなことが思い浮かぶこともあります。その昔、モーゼに導かれてエジプトを命がけで脱出していながら、シナイの砂漠をさまよう事となると、結果がすぐに出ないことへの不満からイスラエル人は、こんなことなら、エジプトで迫害されている方が良かった、とぐちをこぼし、脱出を実現して下さった主なる神に背いて偶像を作り、これにひれ伏すのです。

 いやいやー、私が妻以外の偶像にひれ伏す、なんてつもりは絶対ありませんから。主が我らの支えであるように、妻は私の支えなのですから。(しかし、『イスラエル人もエジプトで虐げられていたよね』と言われそうですね)まずい!いや、同じようでも私はずっと大事にされていると思いますから。ふー。

 こんな風に、世の中の夫婦も年をとってきて、互いにどことなく支えになりあっているというのが、自然ではないでしょうか。私達夫婦も、多分煉獄を通ってからでしょうが、主にまみえる時の事を話すことが多くなってきています。それまでは、この地上で支え合いつつ旅をする、これが主キリストと花嫁である教会の関係を表すのだと、聖パウロも書いておられます。(参:エフェソ5・25)ただ、うちの場合、主が妻で、花嫁が私という変わった関係ではありますが。

わたしの支え

森田 直樹 神父

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 かつてわたしの支えだったものは、若さに伴う行動力と、自分自身の可能性を信じること、そして、必ずうまくいく、という根拠のない思い込みだけだったように思います。

 ところが、日に日に行動力がなくなり、自分自身が信じられなくなり、失敗や自分の思い通りにいかない経験を重ねるにつれ、このようなわたしの支えは揺らぎ始めました。

 その結果、何をするにも億劫になり、新しい出来事や新しい出会いを避け、引っ込み思案になってしまったかのようです。信じて希望を持つことさえも希薄になってしまってきています。これから何を支えにしていけばよいのか分からなくなってしまっています。

 しかしながら、聖書によると、十字架上での死が避けられない、と自覚したイエスは、ゲツセマネの園で次のように祈られたと書かれています。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」(マルコ14・36)

 イエスは、自分の願いではなく、神さまの御心が行われるようにと祈り、すすんで十字架の苦しみを受けられました。そして、その生涯の最後まで神さまへの信頼を失いませんでした。その結果、復活という出来事が起こったのでした。

 何もかも自分の思い通りにいかない時、その時人間は、ただ神さまの御心を受け入れるしかないのかもしれません。また、これこそが、真の私の支えになっていくのかもしれません。

 このようなイエスの姿に倣って生きること、これが本当のわたしの支えになっていくのでしょう。また、ここに、本当の信頼と希望を見いだすこともできるのだと私は思います。


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