大学生の頃、一時期、異性の友人が心の支えとなってくれていた時期がありました。しかし、卒業を機に、この友人との苦しい別れを体験しました。幸いにも、私はこの時、洗礼の恵みを頂いておりましたので、失恋の苦しみから、この世を旅立つことはありませんでしたが、もし、洗礼の恵みを頂いていなかったなら、どうなっていたのか分かりません。
「洗礼を受けた後は、神様がずっと心の支えだったのですね」と言われそうですが、そうでもない人生を歩んできました。洗礼を受けた後、修道会に入り、司祭となりましたが、今、受洗後の自分を振り返る時、イスラエルの民の歩みに似ているのではないかと感じます。何故ならイスラエルの民は、神様からの決定的な救いを体験したにも関わらず、しばしば神様から離れ、神様でないものを神格化し、それが為に苦しみました。そのような時にも神様は、イスラエルを見捨てる事なく、叫び声をあげるイスラエルに助けの手を伸べ救われました。そのようなイスラエルの民と神様との歴史は、私と神様との関わりの歴史に似ています。
このような私を、今日まで支え続けて下さった神様に賛美と感謝を捧げます。
また、物にも支えてもらっていると強く感じます。日常用品は言うに及ばず、パソコン、スマートフォン、地震警報装置、冷蔵庫、IHクッキングヒーター、テレビやラジオといった情報機器など、現代の生活はさまざまな「物」にも支えられています。
私は家に帰ってきて、「おうちさん、待っててくれてありがとう」と口に出して言うことがあります。出かけたらいつ帰るかも分からない住人を、じっと黙って待っていてくれ、いつ帰っても同じように迎え入れ、休ませてくれる家は、私にとっての支えの一つです。
人の支えになることが自分の支えということもあるでしょう。私は視力がないため、人に助けてもらう場面が多くなりがちですが、私が人様を助ける場面も、比率は少ないながらちゃんとあります。人々に感謝することは多くありますが、私が感謝されることもあるわけです。そんなときは、私も誰かの支えとなれたかも、と思うのです。
支えという言葉は一方向に捕らえがちですが、本当の支えは有機的にベクトルが変わるものではないでしょうか。その意味で、私はたくさんの支えを与えられており、また私自身が支えの役割を担ってもいるのだと感じるのです。