数年前、わたしは、ギックリ腰で1週間寝込んだことがあります。ごはんを食べるために体を起こすのにも、トイレのために起き上がるのにも、腰の痛みをガマンしなくてはなりませんでした。くしゃみをしても、声を出して笑っても、腰に激痛が走りました。その経験から、いかに腰が自分の日常を支えてくれていたか、実感したものです。でも、ギックリ腰になる前は、そんな意識はほとんどありませんでした。
考えてみれば、体の各部分は、いつも黙って、わたしたちの命の営みを支えてくれています。
心臓は、一瞬たりとも休んでいません。肺、胃、腸などの内臓も休みなく働いてくれています。生まれたときからずっと、わたしたちが寝ているときも、いつも、年中無休、無報酬で、わたしたちの日々の営みを支えてくれているのです。
ところで、これは体に限ったことではありません。
人間は、霊魂と体でできています。
霊魂は目には見えませんが、意志と知性を有しており、体以上に大切なものです。
忘れてはいけないこと、それは、霊魂も体も神が与えてくださったものだということ。実は、わたしたちを本当に支えてくださっているのは神だということです。健康な時も、病の時も、神は常にわたしたちを支えてくださっています。ですから、今日も、神に感謝です。
神様は、私たちに、いろいろな方法で御自分の愛を示し、どんな時も、共にいて導いてくださる方です。しかし、神様のなさり方は人間の思いを越えるプロセスを辿ることが多いのだと思います。
ともすれば、私は、スムーズに物事が運ばず、自分の思うようにならないような場合に、劇的に事態が良い方向に向いたり、目に見えるはっきりとした「しるし」を求めたりしがちな自分に気付きます。しかし、神様は、実に自然に、ある意味では巧妙に、よく注意しなければ、気付かず通り過ごしてしまいがちな日常の出来事の中に溶け込むように、私たちの存在を根底から支えてくださっていると、私は感じさせられています。
私たちは、日々、何気なく出くわしている出来事や、関わっている身近な人々から、どれほど神様の愛を受け取っているかに、気付いているでしょうか。目の前の厳しい現実の中で、何の希望もないと感じる時でさえ、思いもよらない人に出会って、小さな親切を受けたり、励まされたり。時には、目を上げて、心を開いてみると、必ず違う世界が開かれているのだと、私は信じています。