人は身辺の現実を不幸と解釈するか、幸福と解釈するかで、幸福感が決まります。苦しみは嫌なものですが、解釈いかんでは、生き甲斐を感じさせてくれます。入り乱れた複雑な感情と厳しい人生は宝物です。美しい小鳥の声で感じるあの幸福感ばかりでしたら、多分、私は駄目人間になっているような気がしますし、南米のあの厳しく怖い現実だけですと私は精神的に錯乱していたように思います。
「私を支えているもの」は「私の生き甲斐」ですが、その生き甲斐を創造していくものは、私の理想設定と現実の解釈です。理想の中身が少々変な時は私の現実は変になります。中身が美しく健全な時は、現実も美しく健全なようです。ここが人生の難しいところのようです。
毎日の私の祈りは、この理想の中身と現実の解釈の点検作業のようです。神様も面倒くさい人だなあ、と呆れておられるかもしれませんが、それでもひたすら神様と会話していますと、私は明るく元気になり、そのぶつぶつ会話が私の生き甲斐になっているようです。