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わたしの支え

遠山 満 神父

今日の心の糧イメージ

 私が幼い頃、物心両面に亙って私を最も支えてくれたのは、言うまでもなく私の家族、中でも私の母でした。幼い頃私は、母の姿が家の中に見えないと不安になっていました。その為、小学校六年生になるまで、つまり修学旅行で1泊旅行をするまで、外泊もできない子供でした。

 そんな私も、中学校、高校と進むに連れ、家族よりも友人を頼りにするようになっていきました。特に新設校であった高校では、個性豊かな先生達、先輩方、同級生との交流が、生涯の宝となりました。

 大学生の頃、一時期、異性の友人が心の支えとなってくれていた時期がありました。しかし、卒業を機に、この友人との苦しい別れを体験しました。幸いにも、私はこの時、洗礼の恵みを頂いておりましたので、失恋の苦しみから、この世を旅立つことはありませんでしたが、もし、洗礼の恵みを頂いていなかったなら、どうなっていたのか分かりません。

 「洗礼を受けた後は、神様がずっと心の支えだったのですね」と言われそうですが、そうでもない人生を歩んできました。洗礼を受けた後、修道会に入り、司祭となりましたが、今、受洗後の自分を振り返る時、イスラエルの民の歩みに似ているのではないかと感じます。何故ならイスラエルの民は、神様からの決定的な救いを体験したにも関わらず、しばしば神様から離れ、神様でないものを神格化し、それが為に苦しみました。そのような時にも神様は、イスラエルを見捨てる事なく、叫び声をあげるイスラエルに助けの手を伸べ救われました。そのようなイスラエルの民と神様との歴史は、私と神様との関わりの歴史に似ています。

 このような私を、今日まで支え続けて下さった神様に賛美と感謝を捧げます。