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子どもの祈り

服部 剛

今日の心の糧イメージ

 私は現在43歳ですが、いまだに〈大人〉という言葉の定義を知りません。私はいくつ歳を重ねても、神様の温かい日向に憩う永遠の子どもではないかという気がしています。

 2年前から『カトリック生活』という雑誌の「祈りの風景」という写真と詩の連載で書かせていただいていますが、私は今、そのなかのある詩を思い出しています。

  御手の上で

  目を閉じれば、この身は大きな掌の上

  私はいつもーー無限の陽射しを浴びている

  ゆっくりと目を開けば

  扉の向こうに、待っている

 この詩に書いたように、私という存在はいつ・何処にいても、神様の御手から降りることはできないでしょう。私が敬愛する或る作家は、在りし日に「神に捉まる」という宗教経験を語りました。秋の夜を煌々と照らす月が、どんなに歩いても追いかけて来るように、神様は心をこめて祈る人を歓び、その祈りを密かに受け取っています。そして、これから信仰と出逢い、洗礼の恵みへと導かれる人もやがて、神に捉まったという目には見えない事実が幸いであると知るでしょう。

 私はこの原稿を旅先の静岡県三島にある、夜の小川の流れを臨めるカフェテラスで綴っています。先ほど、店内で一枚の絵を見つけました。複製画ではありますが、18世紀のイギリスの画家・ジョシュア・レノルズが描いたその絵の中の少年は、少し憂いを帯びた瞳で無心に両手を合わせ、遥かな光の囁きに耳を澄ましています。イエスの存在を感じる少年は自らの内面を発光させているようでした。

 閉店時間になり店を出た私は〈少年の祈りの絵は、一体何を語っているのだろう?〉と思いを巡らせながら、旅の宿へと夜道を歩きました。