イエスの時代、多くの貧しい人たちにとって、「今日の」糧に恵まれなかったことも多々あったことと思います。そんな状況の中で、この祈りは、実に切実な祈りであっただろうと想像できます。そして、長い間、貧しい人たちにとっては、心からの祈りとなっていったことでしょう。
現代世界においても、食物に恵まれない多くの貧しい人たちにとって、この祈りは切実な祈りとなっていることと思います。
幸い、日ごとの糧に恵まれている人にとっては、この祈りはあまり重みを感じない祈りになっているかもしれません。しかしながら、この祈りを、その日の糧に恵まれない貧しい人々と共に、心を合わせて祈ることによって、自らの糧を他の人々と分かち合う心が生まれて来るのではないでしょうか。
「今日の」祈りとして捧げる主の祈り、特に、「私たちの日ごとの糧を今日もお与えください」という祈りを通して、分かち合いの心、隣人愛の心を「今日も」呼び覚ましていくのだと私は思います。
このように「主の祈り」は、神さまと私だけがつながる祈りではなく、周りの人に目を向けるようにと促してくれる大切な祈りなのです。私たちの心が開かれ、多くの人たちと「日ごとの糧を」分かち合うことができますように。