大きな権力を持ちながらも、異なった選択をした人もいます。イスラエルの王として著名なダビデです。彼は、自らの弱さに負け、姦淫の罪を犯してしまいます。ここまでは普通の人と同じですが、ダビデの場合、この罪を犯した後、自分の権力を用いて罪を隠蔽しようとします。それに気づいた預言者ナタンは、ダビデをきつく叱責します。この時のダビデの反応は印象的です。「私は主に罪を犯した」。(サムエル記下12・13)彼ほどの立場にいれば、真理を語ったナタンを亡き者にして、自分の立場を守ることもできたはずです。けれどもダビデは、自らの過ちを認め、真理の前に跪きました。その後、ダビデ王は悔い改め、イスラエルの中で最も偉大な王となりました。
私達の人生にも、同様の事があると思います。真理の鏡が真理を示した時、その前で跪く事ができるか否か、それが幸福に至るか否かの分岐点になるのではないでしょうか。