しかし心は収まらないらしく、会うたびに仕事がきついと嘆くようになりました。
「いまは道が閉ざされた気持ちでしょうけれど、神様から見込まれてここにとどまることになったのかもしれません」と慰めてみましたが、無念は晴れないようでした。
本当の選択は、分岐点で道を決めるときよりも、その道を進み始めてからなのかもしれません。
私は語学が好きで、翻訳とエッセイの道に進みました。でもピアノの勉強も諦められず、音大を目指すべきだったか迷った時期があります。音楽を仕事にすればいまとは違う経験ができたでしょう。
しかしいまは、語学から広がった世界は私のために用意されていたものだと思っています。日本で最初の全盲の仏文科学生として上智大学に入り、言葉の道を選択できたことは、神様のゴーサインだったと。なぜなら、本道でないはずの音楽の門も閉ざされず、勉強と演奏活動が続けられたからです。
分岐点で本道として選べる道は一つだけですが、ほかのすべての門戸が閉ざされるわけではありません。そのときは脇道になっても、深めていけば大きく開けていくのだと感じます。あの駅員さんにも、本当に適した何かが用意されていると、私は信じています。