ときどき、小さなうそをついて世渡りをする人がいます。自我を通したりちょっとだけ得をしたり、ときには相手の犠牲の上に自分の目的を果たしたりするために、うそで切り抜けるのです。日本には「うそも方便」という言葉があり、誰も傷つかないうそや、救いにつながるうそは許される風潮があるように思います。
たしかに、何でもグサグサ言えば良いわけではないし、ときには心を保護するためにあえて真実を知らせないであげる配慮も「あり」でしょう。
しかし、私の経験では、うそは必ずいつかあばかれます。うそをついているそのときには、世渡り上手な人がうまいこと切り抜けて得をしているように見えます。でも、たとえば長年のデータ改ざんや著名人の不倫、さまざまな不正が明らかになって騒ぎになっている昨今の情勢一つ見ても、うそは必ず白日の下にさらされ、うそつき本人に対して結果をもたらすことが分かります。
「そのうそ、ばれてるよ」
うそに気付いたとき、私はそんな言葉を飲み込みながら、あの聖書の言葉を心の中で相手に投げかけます。不正を受けてもきっと大丈夫。神様は、黙っているようで、ちゃんと見ておられるのだと思います。
明治の文明開化の時代、多くの日本人は、『西国立志伝』という本を読んで発奮し、自らに与えられた尊い能力や才能をフルに発揮しようと努力して、多くの偉大な業績を残されました。
わたしは、両親を早く亡くし、兄弟の多い大家族の末っ子として育ちましたが、子どもの頃より、自分のことは他人に頼らず、自分自身でやろうと決意し、今日までやってきました。
戦中・戦後の暗い世相の中、ただ神にのみ頼り、祈りながら、人事を尽くしてきました。そこで分かったことは、人にはみな、すばらしい可能性があること、それは、他者によって引き出されるものではなく、自らの力で引き出すものだという真理です。自ら自己の運命を切り開こうと努力する時、神は必ず助けてくださいます。
わたしはこうした生き方をしてきて、本当に困ったことはありませんでした。どうしても助けが必要な時は、謙虚に最小限度の援助をお願いしました。そして、自らには、意識していない宝が沢山隠されていることも知りました。わたしたちは神の子として、必要なものは与えられているのではないかと思います。
聖書にもこう書かれています。
「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタイ6・33)