わたしの好きなみ言葉

森田 直樹 神父

今日の心の糧イメージ

今からちょうど25年前の春、神父になる準備として、1か月間、黙想する機会がありました。春先とはいえ、まだ寒さが残る時期で、木々には新芽も見られず、小鳥の声も聞こえず、芝生も枯れたようになっていました。

黙想しながら、神父の奉仕について考えていた時、あまりにも尊い奉仕に対して、ふさわしくない自分自身の姿ばかり気づき、毎日ふさぎ込んでいました。

そんな中、毎日、散歩をしていると、冬から春へと確かに季節は移り変わって行きます。木々には新芽が芽吹き、小鳥の声もにぎやかになり、枯れたようになっていた芝生も緑を取り戻し、小さな花をつけた雑草が伸びて来ていました。

そこで、ふと思いました。これらの植物は、一見、死んだかのように見えていたけれども、実は、その内に、確かに、命を保ち続けていたのだ、と。決して、死んでしまっていなかったのだ、と。

さらに、このように考えました。私は確かに神父の奉仕にふさわしくないかもしれない。でも、死んだかのように見えた自然の中に、確かに命が留まり続けていたように、洗礼の恵みによって、私の中にも、確かに神さまの霊がとどまっており、神の子とされているのだ、と。

このように考えた私の背中を押してくれたみ言葉は、「神の賜物と招きとは取り消されないものなのです」というみ言葉でした。(ローマ11・29)

これは、イスラエルの人たちへの神さまからの賜物と招きが、決して取り消されない、という聖パウロの言葉ですが、私たち1人1人がいただいている賜物と招きも、決して取り消されることがありません。

このみ言葉にある、決して取り消されることのない招きと賜物のうちに、神父としての日々の歩みがあると私は思っています。

わたしの好きなみ言葉

今井 美沙子

今日の心の糧イメージ

今朝も我家の中庭に小鳥たちがやって来て、精一杯の声で鳴いている。

「わたしは今、ここに生きています」と主張するかのように・・

息子は「あんな小さな身体やのに肺活量がすごいな」としきりに感心している。

何の憂いも悩みもないかのように、天真爛漫に鳴く声を聞いていると、聖書の中のみことばがよみがえってくる。

「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。」=略=

「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労はその日だけで十分である。」参:(マタイ6・25~34)

今年の1月10日の朝、実の弟の妻、峰ちゃんよりあわただしい声で電話があった。

「お姉さん、大変なことになってしもうた。お父さんが倒れて、救急車で病院に運ばれて、今、集中治療室なんやわ。何とか命だけは助けて欲しいんやけど。お姉さん、お祈りしてね・・」

すぐに私の部屋の小さな祭壇の前に座り、弟のため、イエズス、マリア、ヨゼフさまにお祈りを捧げ続けた。

その数時間後、電話があり、検査の結果、出血が少なく、手術の必要がないこと、右半身の麻痺はリハビリすることなどを聞き、また神さまに御礼を申した。

大難を小難にしていただいたのだ。今後のことは神さまに委せ、小鳥のように精一杯生きたらいいのだ。その日の苦労はその日だけで十分、明日のことは明日考えたらいいと弟に伝えてもらうことにした。


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