わたしの好きなみ言葉

松浦 信行 神父

今日の心の糧イメージ

私が、修道会に入るための修行の期間に、聖書の通読がありました。毎日決まった時間に、聖書を読むのですが、あるとき、旧約聖書の伝道の書の一節に目がとまりました。それは、「空の空、空の空、一切空」と、とてもリズミカルで、躍動的な悟りの境地でした。(1章2節)

ちょうどその頃、教会の聖書週間のパンフレットに、聖書のみ言葉を書いてみないかと頼まれ、これだと思い、この一節を書きました。

この短い言葉で物事を言い表す手法は、アフォリズムと言って、ギリシア時代から人々に受け入れられたものですが、日本の俳句や短歌などの文化にとても合っているのではないかと思われ、私もそのリズム感に打たれたわけです。

そして、何事もあるものは無かったものに等しくなるといった、諸行無常的なこの言葉を、なぜ私は好きなのだろうかと考えたそのとき、小さい頃によく見た夢の体験が思い出されました。

その夢とは、私が布団の中で寝ていると、私を見る目が私から離れ、天井から私を見、次に屋根の上から私を見、町の頭上から私を見ている、とだんだんその目が上の方に移動し、日本の上から、地球の上から、そして太陽系の上からと、どんどんと見る位置が遠のいていくのです。

最後には、私がごま粒以上に小さくなるのですが、私を見ようとする心は変わらないといった感覚を伴う、不思議な体験でした。

それは、価値が無い私でも、確かに見つめられ守られているといった体験で、すべてのものが取るに足りないのに、そこに心を込める神の存在があるからこそ、そのものの存在価値があるといった喜びへ通じる体験だったのです。

わたしの好きなみ言葉

村田 佳代子

今日の心の糧イメージ

私は2年に1回、キリシタンの信仰をテーマに個展を開催し続けていますが、17、8年ほど前に「私を支えた聖書の言葉」と題した個展を開催したことがあります。

油彩画で、タイトルは「一粒の麦」「善きサマリア人」「門を叩け」「狭き門」「善き羊飼い」「10人のおとめ」「タラントンのたとえ」「放蕩息子のたとえ」「わたしは葡萄の木」「山上の垂訓」他、全部で15点の作品です。マタイ、ルカの福音書に多く書かれているキリストが語られた例え話と、ヨハネによる福音書のキリストご自身のエピソードを、大小、絵の内容に適したサイズのキャンバスを選び、心を込めて描きました。

小学校がミッションスクールでしたので、毎週、黒板に「今週の聖書の言葉」と決められたみ言葉が書かれ、毎朝大きな声で皆で朗唱したものです。文語体でしたからリズム感があり、次々と暗唱し、今もすらすら口をついて出てくるみ言葉がいくつもあります。

その中でも「求めよ、さらば与えられん。訪ねよ、さらば見出さん。門を叩け、さらば開かれん」というマタイ七章七節とルカ19章9節のみ言葉には、今まで何度励まされ導かれてきたことでしょう。

「一粒の麦 地に落ちて、死なば多くの実を結ぶ」(ヨハネ12・24)「我は葡萄の木、汝らは枝なり」(同15・5)なども幼心に染み透り、高学年になってから、書道の作品にと毛筆を振るったものです。始めは言葉が難しいと感じても、暗記してしまうと意味を真剣に知りたくなって、先生に訊ねることで理解が深まり、よく身に付いたのだと思います。

「祈りを常にせよ (佳代子)」と書いた子供の頃の書初めを、母の遺品に見つけました。


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