2018年08月22日の心の糧


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わたしの好きなみ言葉

森田 直樹 神父

今日の心の糧イメージ 今からちょうど25年前の春、神父になる準備として、1か月間、黙想する機会がありました。春先とはいえ、まだ寒さが残る時期で、木々には新芽も見られず、小鳥の声も聞こえず、芝生も枯れたようになっていました。

黙想しながら、神父の奉仕について考えていた時、あまりにも尊い奉仕に対して、ふさわしくない自分自身の姿ばかり気づき、毎日ふさぎ込んでいました。

そんな中、毎日、散歩をしていると、冬から春へと確かに季節は移り変わって行きます。木々には新芽が芽吹き、小鳥の声もにぎやかになり、枯れたようになっていた芝生も緑を取り戻し、小さな花をつけた雑草が伸びて来ていました。

そこで、ふと思いました。これらの植物は、一見、死んだかのように見えていたけれども、実は、その内に、確かに、命を保ち続けていたのだ、と。決して、死んでしまっていなかったのだ、と。

さらに、このように考えました。私は確かに神父の奉仕にふさわしくないかもしれない。でも、死んだかのように見えた自然の中に、確かに命が留まり続けていたように、洗礼の恵みによって、私の中にも、確かに神さまの霊がとどまっており、神の子とされているのだ、と。

このように考えた私の背中を押してくれたみ言葉は、「神の賜物と招きとは取り消されないものなのです」というみ言葉でした。(ローマ11・29)

これは、イスラエルの人たちへの神さまからの賜物と招きが、決して取り消されない、という聖パウロの言葉ですが、私たち1人1人がいただいている賜物と招きも、決して取り消されることがありません。

このみ言葉にある、決して取り消されることのない招きと賜物のうちに、神父としての日々の歩みがあると私は思っています。