そんな中、毎日、散歩をしていると、冬から春へと確かに季節は移り変わって行きます。木々には新芽が芽吹き、小鳥の声もにぎやかになり、枯れたようになっていた芝生も緑を取り戻し、小さな花をつけた雑草が伸びて来ていました。
そこで、ふと思いました。これらの植物は、一見、死んだかのように見えていたけれども、実は、その内に、確かに、命を保ち続けていたのだ、と。決して、死んでしまっていなかったのだ、と。
さらに、このように考えました。私は確かに神父の奉仕にふさわしくないかもしれない。でも、死んだかのように見えた自然の中に、確かに命が留まり続けていたように、洗礼の恵みによって、私の中にも、確かに神さまの霊がとどまっており、神の子とされているのだ、と。
このように考えた私の背中を押してくれたみ言葉は、「神の賜物と招きとは取り消されないものなのです」というみ言葉でした。(ローマ11・29)
これは、イスラエルの人たちへの神さまからの賜物と招きが、決して取り消されない、という聖パウロの言葉ですが、私たち1人1人がいただいている賜物と招きも、決して取り消されることがありません。
このみ言葉にある、決して取り消されることのない招きと賜物のうちに、神父としての日々の歩みがあると私は思っています。