ここで、主イエスは、ご自分が「羊飼い」で、私をご自分の「羊」という関係で表現されます。「私は自分の羊を知っており、羊も私を知っている。それは、父が私を知っておられ、私が父を知っているのと同じである」と続け、父なる神と「ひとつ」であるイエスは、私との関係においても、何の隔たりもなく、「ひとつ」であると言われるのです。
「ひとつ」ということは、「常に共に在る」ということです。主イエスは、「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(11節)とも言われ、その言葉通り、御自分の命を与え尽して、十字架上で死に、復活されました。復活された主は、私たち一人ひとりに新しい命の息を吹きかけ、それぞれの人生の只中に共におられ、絶えず新しい命に生きるよう介入される方なのです。
こうした体験を積み重ねた私は、「聖書のみ言葉は、生きている神のいのちの言葉」だと実感せざるを得ません。
毎日の聖書朗読を通して気に入っていた「みことば」を、何枚かの用紙に書き込んでみました。1つだけではなく、いくつかです。それは、毎日、意識しなくても行っている動作の中に、何気なく取り込んでいこうとするためでした。つまり、机の引き出しに入れておくためだったのです。引き出しを引いて開けるたびに、紙に書いたみことばが目に飛び込んでくるように、引き出しの1番上にその紙を置いたのです。
それは「あなた方は、人からしてほしいことを、人にもしなさい。」というみことばでした。(ルカ6・31)引き出しを開けるたびに目に入ります。実践に移しやすくなるのです。少なくとも、意識して行動しようと心がけることができます。
自分はこんなことはしてほしくないので、多分相手も同じかなと配慮するゆとりが生まれます。それだけでも、自分の行動に変化が出ます。こうした状況が続きますと、意識しなくとも配慮することができるようになっていったのです。いろいろな面でいい結果が自然に出るようになりました。
自分の好きなみ言葉が、単に飾りとしてではなく、また、標語として終わることもなく、自分の身近なところに、共にあることが充実感を感じさせました。年齢を重ねた今、あの原点に戻って、新たな歩みを刻んでいければいいなと、さらなる前を目指します。