そして、その主婦の代わりに、彼は救急車に電話をかけ、親戚の何人かに連絡を付けて自宅まで来てくれるように頼みました。
救急車が来るや、彼は、救急隊員に「2階です」と言って、1階で待っていました。すると、「あなた、すぐに2階に来て遺体を下ろすのを手伝ってください」と隊員に言われ、「私、親戚ではありません」と言う彼の言葉も聞かず、手伝うことになったということです。
一段落して、彼は自宅に帰り、翌日友人たちにその話をしたら、会う人誰もが「お前、穢れたよ。神社に行ってお祓いを受けてこい。縁起でも無い」と。「それで、今日お祓いに来ました」と、そのいきさつを語りました。
それで、私は「いいことしたね。それはお祓いでなく、神さまから誉められる話だよ、困っている主婦を支えたのだから」と祝福しました。
私がにこにこしているので、彼は「そうですよね。皆がいうものだからその気になったけど、俺はいいことしたんだ」と初めて自分のしたことに、自信を持ったのです。
一つの出来事を「神の眼差しで見る」ことは、悔い改めの大切な要素だと感じました。
シスターの先生がお菓子を配られた。テレサがいただいたお菓子は小さいものだったので、くやしくて捨ててしまった。シスターは後からテレサにもう1つ下さろうとしたが、彼女は受け取らなかった。小さい時からの激しい気質が大きくなってもまだ残っていたのですね。私たちの身近にある様な出来事かも知れません。
そんなテレサですが、そのことを反省し、イエズスに打ち明けて赦しを願ったことを、彼女は日記に残しています。
「よいイエズス様、こんなに卑怯な私をどの様にお思いになりますか。ゆるしてください。この次はもっと良くいたしましょう。」
小さなエピソードを通して、聖女は大切なことを私たちに伝えてくれている様に思います。謙虚に自分の姿を認め、反省し、赦しを願って、あらためる決心をして新たに歩んでゆく。より良い人生の歩みの秘訣は、この様な生き方の積み重ね、繰り返しなのかも知れません。その中で私たちは、少しずつ成長してゆくのでしょう。
歩みを振り返り、勇気を出して、自分のありのままの姿を率直に認めて、悔い改めるなら、新たに歩み出すことができるでしょう。
私たちの歩みが祝福に満ちた歩みとなります様に。