悔い改める

村田 佳代子

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2018年はシドッティ神父生誕350年、屋久島上陸310年であり、2019年には、聖フランシスコ・ザビエルが日本にキリスト教を伝えて470年を迎えます。日本とキリスト教の歴史にとって記念の年が続きますが、長年彼等について取材し、作品に取り上げ発表してきた私には偶然とは思えず、40年余り前、私はやはり「主に呼ばれた」と一人合点しています。

「鎌倉のキリシタン」をご注文下さった神父様が、20年前、私が初出版した画集の表題に、『神の絵筆』と付けて下さった事を感慨深く思い出します。

制作には資料を読み解く事と現地取材が欠かせません。そこで体験するのが他宗教との関わりの問題です。

長い禁教が続いた江戸時代、年中行事の一つとなって継続された絵踏みの習慣は、キリシタンを苦しめましたが、250年もの間、潜伏キリシタンとして信仰を受け継ぐことが出来たのは、他ならぬ近隣の心優しい仏教徒や僧侶神職の協力で、見逃され保護された例が各地にあります。

一方で、豊臣秀吉の伴天連追放令発布から徳川秀忠の禁教令、そして翌年1614年の遠島に至る歴史は、カトリックの修道会同士の仲違いと中傷合戦でしたし、三浦按針ことウイリアム・アダムスを始め、出島に滞在するオランダ商人達の新教徒は、徹底的にカトリック弾圧に組しました。

第2バチカン公会議後、教会は一致の方向に向かい、世界宗教者会議では他宗教間の相互理解を進めています。私利私欲の為の宗教は論外ですが、謙虚に創造主を信じ、命への感謝が基本の宗教なら、今こそ互いの非を悔い改め、協力が必要な時代だと実感します。

人類にゆるしの秘跡をと祈ります。

悔い改める

今井 美沙子

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聖書を読み続けて約50年余りになる。

その時々で深く心を打たれる聖句に出会い、助けられて来た。

71歳の今、私が一番、心を打たれるのは、ルカ23の39~43の犯罪人の回心の箇所である。それを引用すると、

===十字架にかけられた犯罪人の1人が、冒涜の言葉をはいて、

「お前がメシアではないか、自分と俺たちを救ってみろ」と言った。

するともう1人の犯罪人がこれをたしなめて、「おまえは同じ刑罰を受けていながら、まだ神を恐れないのか。われわれは自分のやったことの報いを受けるのだからあたりまえだが、このかたは何も悪いことをなさっていないのだ」と言い、「イエズスさま、あなたが王権をもって来られるときには、どうかわたしを思い出してください」と言った。イエズスは「あなたによく言っておく。きょう、あなたはわたしとともに楽園にいるであろう」と仰せになった。==

この箇所を声を出して繰り返し拝読するといつも希望のようなものが心に湧いてくる。

イエズスさまは、どんな時にも人々への救いをみなぎらせつつおられるということがよくわかるのである。

悔い改めるのは早いにこしたことはないが、さりとて遅いということもない。

いまわのきわであっても、改心し、神さまに心の底からすがるなら、神さまはどんな人も見捨てずに天国に導いてくださるという確信がめばえるのである。

よくぞ、聖書にこの箇所を記述してくれたと2千年後の今、感謝の気持ちでいっぱいである。人生に何があっても決して絶望せず、最期の時まで神さま、神さま、と、純真な心ですがるなら、神さまはきっと手を差しのべてくれると多くの人に声高らかに伝えたい。


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