制作には資料を読み解く事と現地取材が欠かせません。そこで体験するのが他宗教との関わりの問題です。
長い禁教が続いた江戸時代、年中行事の一つとなって継続された絵踏みの習慣は、キリシタンを苦しめましたが、250年もの間、潜伏キリシタンとして信仰を受け継ぐことが出来たのは、他ならぬ近隣の心優しい仏教徒や僧侶神職の協力で、見逃され保護された例が各地にあります。
一方で、豊臣秀吉の伴天連追放令発布から徳川秀忠の禁教令、そして翌年1614年の遠島に至る歴史は、カトリックの修道会同士の仲違いと中傷合戦でしたし、三浦按針ことウイリアム・アダムスを始め、出島に滞在するオランダ商人達の新教徒は、徹底的にカトリック弾圧に組しました。
第2バチカン公会議後、教会は一致の方向に向かい、世界宗教者会議では他宗教間の相互理解を進めています。私利私欲の為の宗教は論外ですが、謙虚に創造主を信じ、命への感謝が基本の宗教なら、今こそ互いの非を悔い改め、協力が必要な時代だと実感します。
人類にゆるしの秘跡をと祈ります。
「お前がメシアではないか、自分と俺たちを救ってみろ」と言った。
するともう1人の犯罪人がこれをたしなめて、「おまえは同じ刑罰を受けていながら、まだ神を恐れないのか。われわれは自分のやったことの報いを受けるのだからあたりまえだが、このかたは何も悪いことをなさっていないのだ」と言い、「イエズスさま、あなたが王権をもって来られるときには、どうかわたしを思い出してください」と言った。イエズスは「あなたによく言っておく。きょう、あなたはわたしとともに楽園にいるであろう」と仰せになった。==
この箇所を声を出して繰り返し拝読するといつも希望のようなものが心に湧いてくる。
イエズスさまは、どんな時にも人々への救いをみなぎらせつつおられるということがよくわかるのである。
悔い改めるのは早いにこしたことはないが、さりとて遅いということもない。
いまわのきわであっても、改心し、神さまに心の底からすがるなら、神さまはどんな人も見捨てずに天国に導いてくださるという確信がめばえるのである。
よくぞ、聖書にこの箇所を記述してくれたと2千年後の今、感謝の気持ちでいっぱいである。人生に何があっても決して絶望せず、最期の時まで神さま、神さま、と、純真な心ですがるなら、神さまはきっと手を差しのべてくれると多くの人に声高らかに伝えたい。