悔い改める

阿南 孝也

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かつて日本聖公会の教会を訪れて、カトリック教会のミサに当たる聖餐式に与ったことがありました。カトリック教会の主日ミサと共通する所がたくさんあって、嬉しくなったことを覚えています。異なっている部分もありました。それらの中から、カトリックの方がいいなと思ったことと、逆に聖公会の方がいいなと思ったことを1つずつ挙げたいと思います。

カトリックのミサでは、始めに回心の祈りを唱えます。聖餐式では、み言葉の部が終わり、聖餐の部に入る直前に、次のような懺悔の祈りを唱えます。「わたしたちは、思いと、言葉と、行いによって、多くの罪を犯していることを懺悔します」と。カトリックの回心の祈りと似ていますが、聖公会では「思い、言葉、行い」に続く「怠りの罪」が抜けているのです。私は、1番自覚することが難しいのが、この怠りの罪だと思っています。

食べ過ぎ、飲みすぎによる私のぷっくりお腹は、鏡を見る度に反省できます。しかし、集団や国レベルの怠りは複雑です。マングローブ林の減少や、多額の赤字国債を子孫へ押し付けることなど、罪の意識を感じにくいことが多いのです。イエス様をお迎えする前に、意識して反省することが必要だと思うのです。

司祭のお許しを得て、ご聖体と御血を拝領した時のことが忘れられません。司祭が私の目をじっと見つめながら「あなたのために与えられた主イエス・キリストの体です」「あなたのために流された主イエス・キリストの血です」と、力強く言われたのです。「私のせいだ」と突きつけられて、申し訳ない気持ちと、神様の愛に包まれている幸せな気持ちで、いっぱいになりました。

時には、違う宗派や、異なる宗教の礼拝に触れてみるのも、いいものです!

悔い改める

越前 喜六 神父

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わたしたちは、弱い人間ですから、どんなに才能があっても、失敗することがあります。そのたびに、七転び八起で、失敗は成功の基なり、と前向きの考え方をして立ち上がれば、それによって人間は必ず成長していきます。それがもう駄目だと絶望してしまうと、不幸の坂を転げ落ちてしまうことになります。

「悔い改め」というのは、もともと宗教用語で、罪を犯したと気づいた時に、悪かったと認め、「赦してください」と祈って、神さまの許に帰ることを意味しています。回心といってもいいでしょう。すると神は、必ず過ちを赦され、力強く真っ直ぐ生きていく力を与えてくださいます。わたし自身は、何百回もそういう経験をしてきました。

悔い改めで大事なことは、過ちを犯した、あるいは間違ったと、「気づく」ことです。しかし、決して不安になったり、自己不信に陥ったりすることではありません。不安というのは、神への信頼の欠如ですから、ある意味で、罪よりも悪いと、わたしは若い時の霊的読書で教わりました。ですから、悪いことをしたということに気がつけば、即座に考え方や選択を変え、神に至る正しい道に戻るように努めています。そこから得られる恵みは、一言で言い表せません。ですから、わたしたちは、過ちを犯したことをいたずらに後悔するのではなく、間違ったと気づいた瞬間に、ものの見方や選択を変えようと努めることが、大事です。

「過ちて改めざる、これを過ちという」との言葉もあります。

人間は、過ちを犯すことで謙虚になり、用心深くなります。悪かったと気づいたら、すぐに改める。それを平安な心で行うなら、わたしたちはやがて偉大な人になるでしょう。


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