悔い改める

シスター山本 久美子

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イエス・キリストの「先駆者」と呼ばれた洗礼者ヨハネは、人々の「あなたはどなたですか」という問いかけに「私は荒れ野で叫ぶ声である」と答えました。(ヨハネ1・19)そして、「主の道をまっすぐにせよ」と人々に「悔い改め」を呼びかけ、自分は「光(イエス)について証しするため」(同1・23)に来たこと、「その光はまことの光で、世に来てすべての人を照らす」(同1・7~9)ことを伝えました。

「悔い改め」とは、どういうことなのでしょう。私たちは先ず、洗礼者ヨハネのように、「自分はいったい何者なのか」という深い問いかけに応えるように、招かれているのではないでしょうか。

私たちは、神様の御前で、あるがままの自分自身に、自分の中のまっすぐでない「荒れ野」、闇、救いを必要とする自分の心の叫びに向き合うことに呼ばれているのです。

ヨハネは、自分の真実を知っていました。「私は、主の履物のひもを解く資格もない」(同1・28)と、「あの方は栄え、私は衰えねばならない」(同3・30)と、「自分は何者であるか」ということを悟り、分を弁えていました。

ヨハネは、神の御前にあって、謙虚にあるがままの自分を、強さも弱さも認め、受け入れることによって、神は光となって、私たちの心を照らし、「荒れ野」を、自己と神との深い「出会いの場」としてくださるということを教えているのです。

「悔い改める」とは、私たちの中に、見たくないような暗い「荒れ野」、罪や弱さがあっても、すさみの時があっても、そのままで、一人ひとりの救い主、光そのものとなって共に生きてくださる、主イエスに出会って行く道を指し示しているのだと思います。

悔い改める

阿南 孝也

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かつて日本聖公会の教会を訪れて、カトリック教会のミサに当たる聖餐式に与ったことがありました。カトリック教会の主日ミサと共通する所がたくさんあって、嬉しくなったことを覚えています。異なっている部分もありました。それらの中から、カトリックの方がいいなと思ったことと、逆に聖公会の方がいいなと思ったことを1つずつ挙げたいと思います。

カトリックのミサでは、始めに回心の祈りを唱えます。聖餐式では、み言葉の部が終わり、聖餐の部に入る直前に、次のような懺悔の祈りを唱えます。「わたしたちは、思いと、言葉と、行いによって、多くの罪を犯していることを懺悔します」と。カトリックの回心の祈りと似ていますが、聖公会では「思い、言葉、行い」に続く「怠りの罪」が抜けているのです。私は、1番自覚することが難しいのが、この怠りの罪だと思っています。

食べ過ぎ、飲みすぎによる私のぷっくりお腹は、鏡を見る度に反省できます。しかし、集団や国レベルの怠りは複雑です。マングローブ林の減少や、多額の赤字国債を子孫へ押し付けることなど、罪の意識を感じにくいことが多いのです。イエス様をお迎えする前に、意識して反省することが必要だと思うのです。

司祭のお許しを得て、ご聖体と御血を拝領した時のことが忘れられません。司祭が私の目をじっと見つめながら「あなたのために与えられた主イエス・キリストの体です」「あなたのために流された主イエス・キリストの血です」と、力強く言われたのです。「私のせいだ」と突きつけられて、申し訳ない気持ちと、神様の愛に包まれている幸せな気持ちで、いっぱいになりました。

時には、違う宗派や、異なる宗教の礼拝に触れてみるのも、いいものです!


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