悔い改める

堀 妙子

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もう10年以上も前の話である。ある宣教師のお母さんが亡くなり、追悼ミサが捧げられることになった。その時のお説教は、お父さんのロザリオにまつわる話だった。

ロザリオとはバラの花で冠を編むように、聖母マリアの生涯を通してイエスの足跡をたどっていく、カトリックの伝統的な祈りだ。

お父さんはイタリアでナチへの抵抗運動をしていた。人間の尊厳を踏みにじる者たちに対して、命がけで人間を守りぬこうとする人たちをパルティザンと呼ぶ。お父さんの役割は、文書などを届ける「伝令」だったそうだ。

当時、まだその宣教師は誕生していなかったが、5歳になる姉がいた。そんなある日、父は任務のため家を出たが、少しして忘れ物に気づき、家に戻った。「ロザリオを忘れた」と言って、ポケットに入れて危険な任務に赴いた。

不運なことに途中でナチに捕まってしまった。5人のパルティザンが捕まり、広場での処刑が決まった。母は父が殺されると聞き、半狂乱になり、「もし夫の命を助けてくださったら、これから生まれる子どもは、神さまに献げます」と祈ったのだそうだ。

やがて、広場に捕まった5人が集められた。父は5番目だった。1人ずつ身体検査があり、銃殺されていった。父の番になり、もう終わりだと覚悟した時、ポケットに入れたロザリオが見つかり、「なんだこんなもの」と地面に投げ捨てられ、「おまえは帰れ」と言われたのだ。

その後生まれた男の子2人は、それぞれ違った修道会に入り司祭となった。

そのうちの1人が、追悼ミサで説教をした宣教師であった。

この説教が忘れられないのは、ロザリオを触ったナチの親衛隊が怖れ、命まで助けたことだ。親衛隊の一瞬の悔い改めにより、2人の司祭が誕生した。

悔い改める

岡野 絵里子

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人間は誰でも失敗をすることがある。グラスを落として割ってしまったり、電車の中に傘を置き忘れたりする。些細な過失は、それほど責められることはないが、心得違いによる失敗は、少し深刻な問題を生むかもしれない。

或る団体の役員をしている男性と話をしていた時のこと。長く仕事をされて、もうじき80歳になろうという方だったが、こんな発言をされたのである。「女性が2人いる時に、1人をほめたら、それはもうセクハラになるんだってね。やりにくいねえ。嫌な世の中になったものだ」。確かにこの方が若い頃は、ハラスメントという概念はなかっただろう。だが礼儀や思いやりは、人が心得ておくべきものとして、昔から社会にあったのではないだろうか。女性が何人かいる中で、1人だけを綺麗な人とほめたら、他の女性たちは醜いと見なされたようで不快な気持ちになるだろう。容姿で選別をされたと感じてしまう。そんな気持ちにさせないのが、思いやりであり礼儀ではないだろうか。

この役員の男性が今まで、言われた者の気持ちに無頓着に生きて来られたのだとしたら、今は、その方向を変えるよい機会なのではないかと思われる。「やりにくい嫌な世の中」ではなく、「人を傷つけない思いやりを持てば、自分にも思いやりが返ってくる世の中」と考えて頂ければ幸いに思う。

私たちが読んできた聖書には「悔い改める」という言葉があった。この言葉の本来の意味は「考え方を変え、顔を神の方へ向けて、正しい道に立ち帰る」ことである。日ごと新しい1日は訪れる。私たちも日々新しく生まれたい。朝の陽のような永遠の存在に顔を向けて。


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