当時、まだその宣教師は誕生していなかったが、5歳になる姉がいた。そんなある日、父は任務のため家を出たが、少しして忘れ物に気づき、家に戻った。「ロザリオを忘れた」と言って、ポケットに入れて危険な任務に赴いた。
不運なことに途中でナチに捕まってしまった。5人のパルティザンが捕まり、広場での処刑が決まった。母は父が殺されると聞き、半狂乱になり、「もし夫の命を助けてくださったら、これから生まれる子どもは、神さまに献げます」と祈ったのだそうだ。
やがて、広場に捕まった5人が集められた。父は5番目だった。1人ずつ身体検査があり、銃殺されていった。父の番になり、もう終わりだと覚悟した時、ポケットに入れたロザリオが見つかり、「なんだこんなもの」と地面に投げ捨てられ、「おまえは帰れ」と言われたのだ。
その後生まれた男の子2人は、それぞれ違った修道会に入り司祭となった。
そのうちの1人が、追悼ミサで説教をした宣教師であった。
この説教が忘れられないのは、ロザリオを触ったナチの親衛隊が怖れ、命まで助けたことだ。親衛隊の一瞬の悔い改めにより、2人の司祭が誕生した。
この役員の男性が今まで、言われた者の気持ちに無頓着に生きて来られたのだとしたら、今は、その方向を変えるよい機会なのではないかと思われる。「やりにくい嫌な世の中」ではなく、「人を傷つけない思いやりを持てば、自分にも思いやりが返ってくる世の中」と考えて頂ければ幸いに思う。
私たちが読んできた聖書には「悔い改める」という言葉があった。この言葉の本来の意味は「考え方を変え、顔を神の方へ向けて、正しい道に立ち帰る」ことである。日ごと新しい1日は訪れる。私たちも日々新しく生まれたい。朝の陽のような永遠の存在に顔を向けて。