悔い改める

岡野 絵里子

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人間は誰でも失敗をすることがある。グラスを落として割ってしまったり、電車の中に傘を置き忘れたりする。些細な過失は、それほど責められることはないが、心得違いによる失敗は、少し深刻な問題を生むかもしれない。

或る団体の役員をしている男性と話をしていた時のこと。長く仕事をされて、もうじき80歳になろうという方だったが、こんな発言をされたのである。「女性が2人いる時に、1人をほめたら、それはもうセクハラになるんだってね。やりにくいねえ。嫌な世の中になったものだ」。確かにこの方が若い頃は、ハラスメントという概念はなかっただろう。だが礼儀や思いやりは、人が心得ておくべきものとして、昔から社会にあったのではないだろうか。女性が何人かいる中で、1人だけを綺麗な人とほめたら、他の女性たちは醜いと見なされたようで不快な気持ちになるだろう。容姿で選別をされたと感じてしまう。そんな気持ちにさせないのが、思いやりであり礼儀ではないだろうか。

この役員の男性が今まで、言われた者の気持ちに無頓着に生きて来られたのだとしたら、今は、その方向を変えるよい機会なのではないかと思われる。「やりにくい嫌な世の中」ではなく、「人を傷つけない思いやりを持てば、自分にも思いやりが返ってくる世の中」と考えて頂ければ幸いに思う。

私たちが読んできた聖書には「悔い改める」という言葉があった。この言葉の本来の意味は「考え方を変え、顔を神の方へ向けて、正しい道に立ち帰る」ことである。日ごと新しい1日は訪れる。私たちも日々新しく生まれたい。朝の陽のような永遠の存在に顔を向けて。

悔い改める

熊本 洋

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「悔い改める」という、この言葉には、なにか、大変深い重みを感じます。「悔いる」こと、そして「改める」こと。いずれも、そこには、なんらか、人生の行き詰まりや悩みがあって、方向転換を迫られている人生の深刻な一面を感じます。

ある辞典をみますと、「悔い改める」とは、「それまでの人生を反省して生き方をあらためること」。そして、もう1つ、2番目の意味は、「悪事を反省して考え方や行動などを新たにすること」と定義しています。

最初の「人生を反省して生き方を改める」という定義は、軽やか、さわやかな感じを受けますが、2番目の「悪事を反省し云々」は、悪事を反省してのことだけに、そこには、なにか人間として、より深い意味があるように感じます。

その深い意味を探求することになりますと、結局、人間とはなにか?どう生きればよいのか?という2点を追求することになります。これは、きわめて日常的なことではありますが、おいそれとはいかない、たいへん難しい、人生の哲学的課題であり、宗教の助け、宗教の導きが必要になってくるように思います。

人間の心は鈍く、かたくな。神から新しい心を与えていただく必要があります。回心は、第1に神の恵みの働きであり、この恵みによって、人間の心は、神に向きを変えます。旧約聖書の一説に「主よ、みもとに立ち返らせてください。わたしたちは立ち返ります」(哀歌5・21)と、謳われており、神は、もう1度、やり直す力をお与えになります。

この神の愛の偉大さを発見することによって、神から離れることなく、日常生活を常に神と共に送るよう努めたいものであります。


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