最初の「人生を反省して生き方を改める」という定義は、軽やか、さわやかな感じを受けますが、2番目の「悪事を反省し云々」は、悪事を反省してのことだけに、そこには、なにか人間として、より深い意味があるように感じます。
その深い意味を探求することになりますと、結局、人間とはなにか?どう生きればよいのか?という2点を追求することになります。これは、きわめて日常的なことではありますが、おいそれとはいかない、たいへん難しい、人生の哲学的課題であり、宗教の助け、宗教の導きが必要になってくるように思います。
人間の心は鈍く、かたくな。神から新しい心を与えていただく必要があります。回心は、第1に神の恵みの働きであり、この恵みによって、人間の心は、神に向きを変えます。旧約聖書の一説に「主よ、みもとに立ち返らせてください。わたしたちは立ち返ります」(哀歌5・21)と、謳われており、神は、もう1度、やり直す力をお与えになります。
この神の愛の偉大さを発見することによって、神から離れることなく、日常生活を常に神と共に送るよう努めたいものであります。
私たちは、神様の御前で、あるがままの自分自身に、自分の中のまっすぐでない「荒れ野」、闇、救いを必要とする自分の心の叫びに向き合うことに呼ばれているのです。
ヨハネは、自分の真実を知っていました。「私は、主の履物のひもを解く資格もない」(同1・28)と、「あの方は栄え、私は衰えねばならない」(同3・30)と、「自分は何者であるか」ということを悟り、分を弁えていました。
ヨハネは、神の御前にあって、謙虚にあるがままの自分を、強さも弱さも認め、受け入れることによって、神は光となって、私たちの心を照らし、「荒れ野」を、自己と神との深い「出会いの場」としてくださるということを教えているのです。
「悔い改める」とは、私たちの中に、見たくないような暗い「荒れ野」、罪や弱さがあっても、すさみの時があっても、そのままで、一人ひとりの救い主、光そのものとなって共に生きてくださる、主イエスに出会って行く道を指し示しているのだと思います。