悔い改める

崔 友本枝

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教会では「悔い改める」という言葉をよく使います。自分がしてしまった失敗や悪を悔いて、新たな気持ちで前に進むという意味です。

人が「悔い改める」気持ちが起きるのは、誰かにゆるされ、愛されていると感じて温かな思いに包まれるときです。

私は聖書を読んでイエスさまの愛に胸を打たれたときにもそういう思いになります。最近では「最後の晩餐」の場面を読んで「悔い改め」を感じました。

イエスは弟子たちと最後の夕食をとっていましたが、突然立ち上がって腰にタオルをつけ、弟子たちの足を洗い始めました。皆は驚きましたが、彼らへの愛があふれて流れ出したのです。「何かしてあげたい」という思いがヨハネ福音書にはこう書かれています。

「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛してこの上なく愛し抜かれた」。(13・1)

イエスの愛は、ご自分を裏切り、わずかな銀貨で売り渡そうとしていたユダにも向けられていました。イエスはユダの足も洗ったのです。

数時間後には兵士がやってきてイエスを捕らえるでしょう。そしてほとんどの弟子は逃げてしまい、ペトロでさえ「あの人を知らない」と3度も言うのです。

翌日、私たちの主は、人間の罪を償うために鉄の珠のついたムチで打たれ、鋭いトゲの茨のついた冠を頭に押し当てられ、裸にされて十字架上で残酷に処刑されます。

何もかもご存じの上でイエスは弟子たちを愛します。この清らかな輝くお心を思うと、かたじけない、という思いと深くしみじみとした感動がわき起こります。そしてイエスのお望みに応え、イエスをお喜ばせしたいと思います。

これが悔い改める気持ちになるのです。

悔い改める

黒岩 英臣

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今、この放送を聴いて下さっている方々の内、多くの方は、どうしてこの「心のともしび」の番組が"悔い改める"というテーマを掲げたものか、奇妙な感じに囚われるかも知れません。

というのは、私達の殆ど全員と言って良い絶対多数の人々は、毎日毎日繰り返し新聞やテレビで報道される不正、犯罪と、少なくとも直接には関係していないので、自分が何か"悔い改める"必要があろうなどとは全く思ってもみないからです。

それなのに、キリスト教だけではなく、別の宗教からも、どことなく「悔い改め」なさいと言われているような気がする、しかし、何を悔い改めるのか見当がつかないのでこの点については差し当たり先送りする事にしよう、とこうなる訳でしょう。

さて、見当もつかないのも道理で、この悔い改めの問題は、神様が私達人間を、「この上ない幸福に包まれて生き、その幸福のあまり、神様を心底から褒め讃えるという関係になるように造られた」という観点が必要です。ところが、現代人は科学技術の極度の進歩のために、生きておられる神との関係を受け入れるのが、中々難しいことになってしまっているのです。まさに、「神様だって?それも人間の脳の産物ではないの?」という訳なのです。

こんなふうに、例えば人工知能を礼賛する、極端に言えば、これをもって自分たちの神とするような姿勢は、創世記や出エジプト記の昔から繰り返しあって、預言者たちは飽くことなくこれを糾弾してきたものです。

そしてとうとう主イエスが来られて、「悔い改めて福音を信じなさい」とおっしゃいました。(マルコ1・15)

確かに私も罪を犯しています。一例をあげれば、他の人をいつも自分のように愛してきたとはやはり言えませんから。


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