悔い改める

遠山 満 神父

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先日、NHK・Eテレの「オイコノミア」という番組で、貧困の問題が取り扱われていました。解説された講師が、「欠乏に陥らない為には、余裕が大切である」ことを力説しながら、次のような例を示されました。

アメリカのある大きな病院でのこと。その病院には、手術室が沢山あるにも関わらず、いつも予約で一杯の状況でした。加えて急患が入ると、一室が使用される為に、予定されていた手術の部屋をやりくりすることが、病院側にとって大変な作業となっていました。そこでコンサルタントに相談したところ、緊急の手術用に一部屋空けておくことが提案されました。病院側は、経営の悪化を心配しましたが、結果は逆で、手術数が増し、経営も改善したのでした。

ここで講師が仰っていたことは、余裕のない状態、つまり「欠乏の状態に陥れば、人は不合理な選択をする可能性がある」と言う事でした。確かに、心に余裕のない時、私達は理性的に振る舞えないことが多いようです。他者からの介入、それが神様からの介入であっても、拒否してしまう可能性があります。

聖書の中に、イエス様に代わって十字架を担った人としてキレネ人のシモンと言う人が登場します。『十字架の道行』という祈りの中で、彼はこの時、「死刑にされる囚人を助けるのは屈辱と感じた」と書かれています。続けて、「心ならずもイエスと一緒に群衆の嘲りの的となったシモンは、後に教会の一員となりました」と書かれ、続く祈りの中で、「主イエス・キリスト、あなたは私達の予期しない出来事を通しても、救いの恵みをお与えになります」と書かれています。

予期しない出来事をも受け入れる為、心の余裕を願いたいと思います。

悔い改める

崔 友本枝

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教会では「悔い改める」という言葉をよく使います。自分がしてしまった失敗や悪を悔いて、新たな気持ちで前に進むという意味です。

人が「悔い改める」気持ちが起きるのは、誰かにゆるされ、愛されていると感じて温かな思いに包まれるときです。

私は聖書を読んでイエスさまの愛に胸を打たれたときにもそういう思いになります。最近では「最後の晩餐」の場面を読んで「悔い改め」を感じました。

イエスは弟子たちと最後の夕食をとっていましたが、突然立ち上がって腰にタオルをつけ、弟子たちの足を洗い始めました。皆は驚きましたが、彼らへの愛があふれて流れ出したのです。「何かしてあげたい」という思いがヨハネ福音書にはこう書かれています。

「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛してこの上なく愛し抜かれた」。(13・1)

イエスの愛は、ご自分を裏切り、わずかな銀貨で売り渡そうとしていたユダにも向けられていました。イエスはユダの足も洗ったのです。

数時間後には兵士がやってきてイエスを捕らえるでしょう。そしてほとんどの弟子は逃げてしまい、ペトロでさえ「あの人を知らない」と3度も言うのです。

翌日、私たちの主は、人間の罪を償うために鉄の珠のついたムチで打たれ、鋭いトゲの茨のついた冠を頭に押し当てられ、裸にされて十字架上で残酷に処刑されます。

何もかもご存じの上でイエスは弟子たちを愛します。この清らかな輝くお心を思うと、かたじけない、という思いと深くしみじみとした感動がわき起こります。そしてイエスのお望みに応え、イエスをお喜ばせしたいと思います。

これが悔い改める気持ちになるのです。


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