これは、ドイツからいらしたある神父様がいつもおっしゃっていたことです。マシュマロみたいなふわふわの白髪がお顔をつつんでキラキラとかがやき、弾けるようなとっておきの笑顔。とっても小柄で可愛らしい神父様。
この情熱的な神父様は、こうおっしゃるときには決まってピョーンと飛び上がって祭壇をかけ降りてみんなの間に立ち、「いいですか、わたし達は神様がゆるせないほどの罪を犯すことなんてできないんですよッ!」と叫ばれるのです。
神様は、それほど限りなくわたし達を愛してくださって、限りなく罪をゆるしてくださる方ということですね。
イエス様はそのご生涯での宣教を「悔い改めよ。神の国は近づいた」の宣言で始められました。
悔い改めて、悔い改めて、なんどでも、なんどでも、ゆるされる・・・。
これぞ福音! よろこびの音信とはこのことだと、あらためて「福音」という言葉をリアルに実感しました。
この神父様の「ジャンプ付きの」ミサのお説教のなかで。
聖書をパタン、と閉じて私が感じることは、すでに体を持たないイエスという存在の"いつまでも消えない愛"があるーーという直観です。
<イエスの存在は愛そのものかもしれない>という予感を辿っていくと、その核心に触れるのはルカによる福音書22章でペトロがイエスを裏切る、次の場面です。
『主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。』
この場面を読むたび、瞳を閉じるとイエスの深く澄んだまなざしは時空を越えて、日々、つまずいては何とか立ち上がろうとする弱さを抱えた私自身をも、じっと見つめてくださっているような気がします。その少し潤み、微かに震える瞳は、誰もが転んでは立ち上がろうとする時にこそ、遥かに遠い場所から何かを囁いています。
「もし、あなたの哀しみを誰も理解しなくても、私はあなたの哀しみを知っている。そして、もし私と共に歩むならば、やがて雲間からあの太陽が顔を出すであろう」と。