悔い改める

三宮 麻由子

今日の心の糧イメージ

最近、「お客様トラブル」が原因で電車が遅れることが増えた気がします。携帯電話のマナー、肩や肘が触れたといったことで乗客同士が喧嘩になるそうです。

私も1度、軽いトラブルに巻き込まれました。

朝、最寄り駅のホームで電車を待っていると、列の前に並んでいた男性が、抱えていたリュックをいきなり背中に回し、私の白杖に当たりました。白杖は横から衝撃を受けると折れることがよくあるので、咄嗟に手で杖を守ったのですが、このときリュックが男性の肩から滑って地面に落ちたのです。男性は烈火のごとく怒り出し、私が「突き飛ばした」と周りの方たちに言い始めました。

私は「違います、杖に当たったので防御しただけです」と負けずに大きな声で叫ばなければなりませんでした。

列で大きなリュックを背負いなおすこと自体危険ですが、男性はせめて、後ろに注意すべきだったでしょう。白杖が折れることの危険性を考えれば、謝るべきはむしろ彼の方だったと思います。

大きく肘を張っている隣の席の人が突然肘鉄してくることも増えました。色んな人に訊いてみても、私に限らずほぼみなさん、自分はマナーを守っていても、相手が違反して衝突が起こり、理不尽に責められたという形のトラブルを経験しています。

イエスは、人を責める前に自分の罪を省みよと教えていますが、それは、ただ泣き寝入りして赦せという意味なのでしょうか。

自分の罪が意識できると、相手の過ちを説明して罪を意識させることもできます。まずは、何が罪なのか、どこに罪があるのかを見極めて反省のチャンスを作る、これがイエスの狙いではなかったでしょうか。

天候不順の作用もあるのか、難しい時代になったものです。

悔い改める

湯川 千恵子

今日の心の糧イメージ

>先日、教会のミサで、「善いサマリア人の話」が朗読された。その概要は・・・ (参:ルカ10・30~37)

「ある旅人が強盗に襲われて身ぐるみ剥がされ、半死半生で倒れていた。そこへ祭司とレビ人が通りかかったが道の向こう側を歩き去った。ところが旅をしていたサマリア人はこの人を見て近づき、怪我の手当てをしてロバに乗せ、宿に運んで介抱した。翌日、宿の主人にお金を渡して世話を頼み、費用が不足したら帰りに払うからと言って仕事に出かけた。イエスは言われた。『あなたもこの善いサマリア人と同じようにしなさい。』 」

聖書のこの話を聞くと、私は自分の愛と勇気の足りなさを思って心が痛む。もしこんな場面に出遭ったら、私も祭司たちのように道の向こう側を通り過ぎてしまうだろうと想うからだ。日常でも悩み苦しんでいる知人がいても、その人の苦しみを我が事のように感じて助けてあげているだろうか?助けたつもりでも、自己満足だったり、その方の負担になっていないだろうか? 

「隣人を自分のように愛すること」は本当に難しい。この善いサマリア人の心の持ち方をお手本にしたら出来るのだろうか?

 

この善いサマリア人は、いつも謙虚に神の恵みを受け、感謝して生きていたのだろう。それで自分が神に愛されたように他者を愛したいと常に想っていたのだと思われる。だから助けを必要とする人を見た時、その痛みを肌で感じて適切に助けることが出来たのだ。

 

未熟な私も、ありのまま神に愛され、助けられ、導かれて幸せに生きてきた。その大きな愛を感謝して受けるだけでなく、周りの人にお返しすることをもっと積極的に心がけよう。そして私も隣人を我が身のように愛する行いが少しでも出来るようになりたいと切に願うのである。


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