悔い改める

小川 靖忠 神父

今日の心の糧イメージ

日本人の特徴として、思いやりがある、礼儀が正しい、など「きれいな心」という清廉なイメージがあるようです。ところが、ある海外の人々からみた日本人は、自己表現が消極的、人目を気にしすぎている、謙虚さがかえって自虐的に見えるなど、マイナスのイメージがあるように感じるそうです。

日本のことわざに「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」という表現があります。昔から日本人に根付いている文化は、「恥の文化」であると聞きます。こうした「日本人気質」は、どこから来ているのでしょうか。

アメリカの文化人類学者であり、「菊と刀」の著者でもあるルース・ベネディクト氏が、その著書の中で規定しています。つまり、欧米は内面の良心を重視するのに対し、日本は世間体や外聞といった他人の視線を気にするというのです。さらに、他人に笑われたくない、恥をかきたくない、正しいかどうかで行動を決めるのではなく、世間がそれをどう思うかで、日本人は自分の行動を決める、と彼女は分析しています。

こう考えますと、「悔い改める」という業も、人の目を気にしての行動になるのでしょうか。自分の行動が悪かったことに気づき、それを直すわけですから、その判断基準は「人の目」なんでしょうか。それではあまりにも刹那的な感じがします。

同じような表現に「回心する」という言葉があります。これは、今までの歩みを肯定し、「方向転換をする」という意味合いがあるのではないでしょうか。「悔い改め」は、過去を否定するわけではないにしても、今までの自分に「ダメ」の判断を下してしまいます。

人は皆、紆余曲折をたどりつつ、よりよい生き方を求め続けています。それを本人が意識していてもいなくても・・。

悔い改め、回心の日々です。

悔い改める

三宮 麻由子

今日の心の糧イメージ

最近、「お客様トラブル」が原因で電車が遅れることが増えた気がします。携帯電話のマナー、肩や肘が触れたといったことで乗客同士が喧嘩になるそうです。

私も1度、軽いトラブルに巻き込まれました。

朝、最寄り駅のホームで電車を待っていると、列の前に並んでいた男性が、抱えていたリュックをいきなり背中に回し、私の白杖に当たりました。白杖は横から衝撃を受けると折れることがよくあるので、咄嗟に手で杖を守ったのですが、このときリュックが男性の肩から滑って地面に落ちたのです。男性は烈火のごとく怒り出し、私が「突き飛ばした」と周りの方たちに言い始めました。

私は「違います、杖に当たったので防御しただけです」と負けずに大きな声で叫ばなければなりませんでした。

列で大きなリュックを背負いなおすこと自体危険ですが、男性はせめて、後ろに注意すべきだったでしょう。白杖が折れることの危険性を考えれば、謝るべきはむしろ彼の方だったと思います。

大きく肘を張っている隣の席の人が突然肘鉄してくることも増えました。色んな人に訊いてみても、私に限らずほぼみなさん、自分はマナーを守っていても、相手が違反して衝突が起こり、理不尽に責められたという形のトラブルを経験しています。

イエスは、人を責める前に自分の罪を省みよと教えていますが、それは、ただ泣き寝入りして赦せという意味なのでしょうか。

自分の罪が意識できると、相手の過ちを説明して罪を意識させることもできます。まずは、何が罪なのか、どこに罪があるのかを見極めて反省のチャンスを作る、これがイエスの狙いではなかったでしょうか。

天候不順の作用もあるのか、難しい時代になったものです。


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