悔い改める

片柳 弘史 神父

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キリスト教の出発点に、一つの悔い改めがある。それは、イエス・キリストの弟子たちの悔い改めだ。

イエスが捕縛され、十字架で処刑されたとき、弟子たちはイエスを置いて逃げるという罪を犯した。イエスが、弟子たちを恨んだとしても当然だっただろう。ところが、イエスは、弟子たちのしたことをあっさりゆるした。復活して弟子たちの前に現れ、まるで何事もなかったかのように、「あなたがたに平和があるように」と弟子たちに話しかけたのだ。(ルカ24・36)

罪がゆるされたことを知った弟子たちの喜びは、一体どれほどだったろう。「これほどまでに自分たちを愛してくれるイエスを、2度と裏切るまい」と弟子たちは心の中で誓ったに違いない。この出来事の後、しばらくして弟子たちは世界への布教活動を始めた。厳しい迫害を受けても、今度は逃げなかった。皆、イエスへの愛を守り、殉教していったのである。弟子たちの悔い改めから、キリスト教が始まったと言っていいだろう。

 

このような悔い改めは、わたしが宗教講話のために通っている刑務所でも見られる。受刑者たちは、自分が迷惑をかけた家族から手紙を受取り、家族が自分を待っていてくれることを知ったとき、「2度と家族を悲しませるようなことはすまい」と決意する。更生の機会を与えられ、刑務官たちから親身な指導を受ける中で、「2度と社会に迷惑をかけるようなことはすまい」と決意する。

「これほどまでに自分を愛してくれる人たちを悲しませるようなことは、2度とすまい」と誓う決意こそ、悔い改めの原動力だ。人間は、愛の中で生まれ変わると言っていいだろう。神様の愛、家族や友人たちの愛をしっかり胸に刻むことから、新しい生活を始めたい。

悔い改める

新井 紀子

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私の父は肺がんで入退院を繰り返していました。私は初めての肉親の別れに覚悟ができていませんでした。父はできていたようです。

その日、母を連れて病院へお見舞いに行くと、父の呼吸が怪しくなり、みるみる顔色が悪くなりました。驚いて医師を呼びました。医師はすぐに気道確保のための機械を装着しようとしました。ところが、父は苦しい呼吸の中でも、嫌がるのです。しかし、母も私もその装置を付ければもう少し長く生きられると思い、付けてもらったのです。その夜、父は息を引き取りました。

「あんなに嫌がっていたのに、機械を付けてしまった。付けなければ、父の言葉を最後まで聞けた・・・。」と私。

2年後、パーキンソン病を患って、体の動きが不自由になっていた母が倒れました。私たち姉妹は、父の最期の時の反省から母には望みどおりに死なせてあげようと思いました。20年以上も昔のことです。自宅での看取りを選んだのです。近所の医師も協力してくれました。

その日、1度意識を失いました。私が救急法で習った人口呼吸と心臓マッサージを施すと、母は蘇生し「Yちゃんは」と、まだ来ていない末娘の名を言ったのです。駆け付けた末娘が「お母さん、Yですよ」母の耳元で言うと、母は安心したように天国へ旅立って行きました。母の希望通り、子供たちに見守られて自宅で最期を迎えることができました。母は、父と違って最期の言葉を言うことができたのです。

私にはもう一つ反省があります。

父と母の最期に立ち会えたのに、言えなかった言葉があるのです。こんな言葉です。

「お父さん。育ててくれて、ありがとう」

「お母さん。産んでくれて、ありがとう」

父と母が元気な時に言えば良かった。今も胸が痛みます。


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