悔い改める

黒岩 英臣

今日の心の糧イメージ

今、この放送を聴いて下さっている方々の内、多くの方は、どうしてこの「心のともしび」の番組が"悔い改める"というテーマを掲げたものか、奇妙な感じに囚われるかも知れません。

というのは、私達の殆ど全員と言って良い絶対多数の人々は、毎日毎日繰り返し新聞やテレビで報道される不正、犯罪と、少なくとも直接には関係していないので、自分が何か"悔い改める"必要があろうなどとは全く思ってもみないからです。

それなのに、キリスト教だけではなく、別の宗教からも、どことなく「悔い改め」なさいと言われているような気がする、しかし、何を悔い改めるのか見当がつかないのでこの点については差し当たり先送りする事にしよう、とこうなる訳でしょう。

さて、見当もつかないのも道理で、この悔い改めの問題は、神様が私達人間を、「この上ない幸福に包まれて生き、その幸福のあまり、神様を心底から褒め讃えるという関係になるように造られた」という観点が必要です。ところが、現代人は科学技術の極度の進歩のために、生きておられる神との関係を受け入れるのが、中々難しいことになってしまっているのです。まさに、「神様だって?それも人間の脳の産物ではないの?」という訳なのです。

こんなふうに、例えば人工知能を礼賛する、極端に言えば、これをもって自分たちの神とするような姿勢は、創世記や出エジプト記の昔から繰り返しあって、預言者たちは飽くことなくこれを糾弾してきたものです。

そしてとうとう主イエスが来られて、「悔い改めて福音を信じなさい」とおっしゃいました。(マルコ1・15)

確かに私も罪を犯しています。一例をあげれば、他の人をいつも自分のように愛してきたとはやはり言えませんから。

悔い改める

片柳 弘史 神父

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キリスト教の出発点に、一つの悔い改めがある。それは、イエス・キリストの弟子たちの悔い改めだ。

イエスが捕縛され、十字架で処刑されたとき、弟子たちはイエスを置いて逃げるという罪を犯した。イエスが、弟子たちを恨んだとしても当然だっただろう。ところが、イエスは、弟子たちのしたことをあっさりゆるした。復活して弟子たちの前に現れ、まるで何事もなかったかのように、「あなたがたに平和があるように」と弟子たちに話しかけたのだ。(ルカ24・36)

罪がゆるされたことを知った弟子たちの喜びは、一体どれほどだったろう。「これほどまでに自分たちを愛してくれるイエスを、2度と裏切るまい」と弟子たちは心の中で誓ったに違いない。この出来事の後、しばらくして弟子たちは世界への布教活動を始めた。厳しい迫害を受けても、今度は逃げなかった。皆、イエスへの愛を守り、殉教していったのである。弟子たちの悔い改めから、キリスト教が始まったと言っていいだろう。

 

このような悔い改めは、わたしが宗教講話のために通っている刑務所でも見られる。受刑者たちは、自分が迷惑をかけた家族から手紙を受取り、家族が自分を待っていてくれることを知ったとき、「2度と家族を悲しませるようなことはすまい」と決意する。更生の機会を与えられ、刑務官たちから親身な指導を受ける中で、「2度と社会に迷惑をかけるようなことはすまい」と決意する。

「これほどまでに自分を愛してくれる人たちを悲しませるようなことは、2度とすまい」と誓う決意こそ、悔い改めの原動力だ。人間は、愛の中で生まれ変わると言っていいだろう。神様の愛、家族や友人たちの愛をしっかり胸に刻むことから、新しい生活を始めたい。


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