そして、その主婦の代わりに、彼は救急車に電話をかけ、親戚の何人かに連絡を付けて自宅まで来てくれるように頼みました。
救急車が来るや、彼は、救急隊員に「2階です」と言って、1階で待っていました。すると、「あなた、すぐに2階に来て遺体を下ろすのを手伝ってください」と隊員に言われ、「私、親戚ではありません」と言う彼の言葉も聞かず、手伝うことになったということです。
一段落して、彼は自宅に帰り、翌日友人たちにその話をしたら、会う人誰もが「お前、穢れたよ。神社に行ってお祓いを受けてこい。縁起でも無い」と。「それで、今日お祓いに来ました」と、そのいきさつを語りました。
それで、私は「いいことしたね。それはお祓いでなく、神さまから誉められる話だよ、困っている主婦を支えたのだから」と祝福しました。
私がにこにこしているので、彼は「そうですよね。皆がいうものだからその気になったけど、俺はいいことしたんだ」と初めて自分のしたことに、自信を持ったのです。
一つの出来事を「神の眼差しで見る」ことは、悔い改めの大切な要素だと感じました。