人間の1000分の1しかない小さな生き物。飛ぶために体の部品の数を最小限に抑え、手で持つと恐いくらいに軽くてもろい小鳥たち。手のひらの中で小さな心臓が震えるように鼓動し、羽の中に丁寧に包まれた命が発する体温で、手のひらが一瞬にして温められます。蕪村は、そんな小鳥たちを静かに庇に迎え、ささやくような命の音をめでているのです。「嬉しさよ」と言いながら、句には弱い生き物である小鳥たちの悲しさが織り込まれ、切ないような命への哀れみが溢れています。蕪村の哀れみはけっして「上から目線」の慈悲ではなく、生きるという悲哀をともに背負った被造物同士の共感なのです。
私は、小鳥は神様の箸休めだといつも思います。神様に一番近い「空」を飛ぶことを許され、美しい囀りを与えられ、声を大地に反響させることで光と空の移ろいを伝えてくれます。神様自身が、めでるために鳥を作られたような気さえするのです。
その歌のなかに、私はふと、時に応じて私に最も必要な神様からのメッセージを聞いたと思うことがあります。それは、自我を忘れて無心になり、蕪村のような切ない哀れみを感じながら彼らの声をめでるときにしか聞けない、秘密のメッセージです。
めでる心は、神様の言葉を見つける有効な方法かもしれません。
ところで、この「愛」と「美」のバラの季節に相応しく、カトリック教会では、5月を聖母の月として聖母マリアに特別の信心をささげます。今や、全世界、聖母マリアを知らない人は、いません。キリストの母として、稀有な出来事を体験し、あらゆる辛酸をなめ、悲しみ、苦しみ、嘆きの母としての姿は、絵画、音楽、彫刻など、多くの芸術作品を通じて、知れわたっています。特に、聖母が天に昇る最後の栄光ある姿は、巨匠グレコなど多くの芸術家によって具現化され、感嘆、畏敬の的となっています。
聖母の被昇天、つまり聖母が霊魂と肉体とともに天国に入ったという教義は比較的新しく、小生が学生時代の1950年、ピオ12世によって定められました。その祭日は、奇しくも、日本人には忘れられない終戦記念日の8月15日となっています。また「終生、処女である神の母、無原罪のマリア」の祭日は、これまた奇しくも日本人には忘れられない太平洋戦争勃発の12月8日。聖母とゆかり深い日本国。聖母の現代的意義を見出し、聖母の愛でる「愛」と「美」の日本国でありたいものであります。