愛でる

黒岩 英臣

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春には咲き乱れる花を愛で、秋には煌々と輝る月を愛でる・・・いいですよねー、何か美しさに打たれ、感動があります。

そして神が、幸福を喜び、感謝を感じるものとして人間を作り、その人間が楽園をそぞろ歩き、楽しく過ごすのを見て、「善し」と思われた、つまり神が、人を愛でられた意味になるのも分かります。

この「愛でる」という行為、すなわち、私達が「花鳥風月」を愛でたり、神様が私達を愛でるという場合なら、この表現で違和感が無いという気がします。

それは、意志や気持ちを持つ方として、また、私達が存在を楽しんでいるのを「善し」とされた神様が、私たちを愛で、慈しんでくださる、親そのもののような気持ちだからだと思います。

これを逆に、私達が親を愛でるとか、神様を愛でるとは、何かしら言いにくい気がします。もしかしてこれは、まだほんの5才の子どもが、骨董の逸品を前にして、「これは珍品だねー」などと言う事に等しいのかも知れず、だから私達も、目上とか神様を愛でるとは言いにくいのでは、と推察します。

同じ「愛」という字を使っても、「愛でる」と「愛する」では内容にも違いがあります。今、聖書を片手に、少し愛についてご紹介しましょう。

新約聖書マタイ福音書の中に、律法学者がイエスを貶めようと、どの律法が1番大切かと質問しました。イエスは答えて、「心を尽くし思いを尽くしてあなたの神である主を愛せよ。これが最も重要である」とした上で「第2も同じく重要である。隣人をあなた自身のように愛せよ」と仰せになりました。(参:22・37~39)

このように、「愛」なら、愛でるのように格下も格上もなく、私達は自分が痛い想いをしても他の人に尽くすのです。

愛でる

村田 佳代子

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春霞が切れて、5月の空は高く澄み渡るせいか夜空が明るく美しく、つい立ち止まって仰ぎ見てしまいます。昔から日本人は「月を愛でる」と言い、その感動から歴史上名作と言われる詩歌など文学作品や名画が数多く誕生しています。

「愛でる」という言葉は、普通は美しい事を褒める、又は好ましく思う、物を大切にするというような、自然環境や価値の高い物に対して評価する時に使われることが多いのだと思います。

ではどうして「愛でる」を漢字で表記するときに「愛」という字が使われるのでしょうか。

ある時、こんな事件がありました。私が住む鎌倉には古いお寺が沢山あります。その中の1つのお寺に小さいながら気品漂う1体の仏像がありました。よそのお寺の1人のお坊さんがたまたま立ち寄ってその仏像と初対面でその姿かたちを好きだと感じて帰りました。ところが、なんとなく忘れがたく、度々その仏像に会いたくて、用を作っては足繁くお寺に通うようになったのです。仏像を深く愛してしまったのです。愛は単に好きだという思いを超えて片時も離れず慈しみ愛しく思うことです。そしてお坊さんはその仏像を欲しくてたまらず、遂に盗んでしまったのです。勿論事件として1度は新聞にも報道されました。ところが仏像を持っていたお寺の寛大なる計らいで、仏像は一時貸し出されていたとの証言になり、泥棒のお坊さんは汚名返上となりました。以来2つのお寺は以前より関係が深まったように私は感じています。

「名月を 取ってくれろと 泣く子かな」という俳句のように、「愛でる」は、好ましい気持ちが膨らんで遂には自分のものにしたい、欲しい、という思いになることを表す言葉なのでしょう。

私たちの主に対する祈りにも似て。


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