すると、小犬がほえた。
その男性はすばやく小犬を抱き上げると、「おお、恐かった、恐かったなあ、お父ちゃんが悪かった。かんにんな」と小犬に謝り、いとおしそうに小犬の頭を撫でた。
犬は鳴きやんだ。
ほんの一瞬のことであったが、深い感動と共に1枚の絵のように私の脳裏に焼きついている。
ふだんはにこりともしないようないかつい顔の人が、小犬に対して、見せた愛情が忘れられないのである。
私の父母は、人を見かけで判断してはいけないということを常々いっていたが、そうなんだと納得したのであった。
ご近所に住んでいた男性が先日亡くなった。
80歳くらいであったろうか。50代の頃妻を亡くし、その後一人暮らしであった。
近寄りがたいものがあり、ほとんど誰ともつき合いはなかった。
しかし、私は家の前を通りかかると、一方的によく話しかけた。家の前に植木鉢が数個あり、毎朝手つきの鍋に水を入れてかけていた。
暑い日のこと。「植木も熱中症になったらかわいそうやからね」とぽつりといった。
この人の心にも植木を愛でる心がふんだんにあったのだと気付き、心が明るくなった。
『最後の晩餐』は、いろいろな画家が描いています。
インターネットで検索すると、イエスがヨハネの肩を優しく抱いている絵が出てきました。観ているうちに、「その弟子をイエスは愛しておられた」という聖書の言葉が、私の胸に浮かんできました。この絵に作者の名前はありませんでしたが、イエスを裏切るユダが外へ出てゆく前の緊迫した場面だけに、自らの死を意識したイエスとヨハネの絆の深さが伝わってきました。
新約聖書の中でも、とくに『ヨハネによる福音書』を読んでいると、イエスが今も聖書の中から語りかけている感覚になります。
昔は、使徒ヨハネが記したといわれたこの福音書も、今ではヨハネの弟子か、思想を受け継いだ者が書いた、という説になっています。いずれにしても、在りし日のイエスの愛弟子として共に過ごした忘れ得ぬ日々と、哀しむ人に澄んだまなざしを注ぎ、聖なる霊の息吹のままに生きたイエスの姿は、ヨハネの心の中にいつまでも焼きついていました。「ヨハネの目」に映る風景の中で、あの日、十字架上で息絶えたイエスは、やがて霊的な存在となり、信じる人の心に住むーーという秘儀を、『ヨハネによる福音書』は、あなたにそっと、語りかけるでしょう。