私は人からもよく「おめでたい」人と言われるし、自分でもそう思っている。私だけではない、まわりを見渡すとクリスチャンにはそういう人がけっこう多い。「神さまを信じる」ということはそのようなおめでたさを持っていることではないかとさえ思う。私はこれを「福音的おめでたさ」といっている。
「神さまの作られたものはみな最高の傑作であって、駄作や失敗作はない」「神さまはどんな人をも等しく愛している」と信じることができるようになると「こんなダメな私でも最高傑作であり、神さまに愛されているんだ」と思えるようになってうれしくなってくる。
そしてさらにどんな災難にあっても、どんな障がいや病気をもっていても、どんな過ちを犯しても「それでも神さまに愛されている」と思う。けれどこの言葉をそういう状況の中におかれている人にむかって気安く言うと、「バカにするな」とぶっ飛ばされてしまうだろうから軽々しく言うべきではない。
一昔前のクリスチャンは「人間はみな罪人であり、悔い改めなければ救われない」と思っていた。そういう罪意識にとらわれているクリスチャンもまだ少なくないけれど、こういう「福音的なおめでたさ」を持ったクリスチャンもちらほらみられるようになって、教会の中が明るくなったように思う。ずいぶん様変わりしたものである。