子どもは、大好きなお母さんが励ましてくれるから新しいことに挑戦できるのです。お母さんが喜んでくれることが嬉しくてたまらないのです。人は、愛する人を喜ばせることを喜びとする心を、生まれながらに持っているのかもしれません。親が見守ってくれている、そして危なくなったら必ず助けてくれると信頼しているから、安心して進んでいけるのだと思います。
「タラントンのたとえ話」がマタイによる福音書(25・14~30)に記されています。主人から委ねられたお金を活用し増やすことができた僕が祝福され、恐ろしくなり地中に隠しておいた僕が追い出されるという話です。
神様は、私たち一人一人に、様々なタレントをくださり、人々の幸せ実現のために用いることを望んでおられるのです。失敗を恐れてタレントを生かさないことは、神様を悲しませる行為なのです。「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」(マルコ 10・15)というキリストのみ言葉を、新ためてかみしめたいと思います。
そして、いつも共にいてくださる神様に信頼して、人の喜びを自らの喜びとする生き方ができますように、そう願っています。
どちらかと言えば、闇や困難の中にあると感じている人たちに対して、それでもイエスは「世の光」である、と告げます。なぜ、イエスはこのように力強く宣言するのでしょう。
聖書によると、天地創造の初め、全てのものをお造りになった神は、人間をもお造りになりました。その時、神は「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。」と人間を祝福されました。(創世記 1・28)
さらに聖書は告げます。「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。」(同 1・31)
人間は、その存在の初めから、神によって祝福で満たされ、極めて良いものとして、神によって愛でられた存在なのです。すなわち、生まれつき善いものである、という徹底的な性善説を主張しているのです。
イエスのこの言葉は、今日の私たちにも同じように響きます。
「あなたがたは世の光である。...あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」と。
たとえ八方ふさがりの最中にあっても、苦しみや困難の内にあっても、何事もうまくいかず途方に暮れていたとしても、それでも、イエスは「あなたがたは世の光である」と私たちに告げられるのです。この光は、天地創造で最初に造られた光ではないか、と私は考えています。
神様から愛でられた存在として、一人ひとりが持っている光、本当の善い自分をさらに輝かせていくように、とイエスは呼びかけます。